2008年12月01日
<暮らしの中の世界史>
黒人差別との長い闘い
東京学館浦安高教諭 小橋 正敏
11月4日、アメリカ大統領選にて、民主党のバラク・オバマ上院議員が当選した。来年1月、アメリカ史上初のアフリカ系大統領が誕生する。ちょうど今年は、黒人の公民権運動の指導者、マーティン・ルーサー・キング牧師が凶弾に倒れてから40年目である。
1863年の奴隷解放宣言は、黒人が奴隷から人間として認められる画期的な出来事であった。しかし、奴隷制が廃止されても、黒人差別のきびしい現実は続いた。1880年代から、南部諸州は黒人の選挙権を事実上剥奪する法を制定するとともに、黒人と白人とを学校、乗物、劇場など公共の施設において分離する法を制定した。そして、「分離すれども平等」という原則を確認した1896年の連邦最高裁判決は、その後長く、白黒分離を支持する南部白人の法的根拠となっていた。
黒人差別に対する連邦最高裁の態度は、ようやく1940年代に至って次第に変わり、ついに1954年、「分離すれども平等」の原則は完全に否定された(井出義光『史料が語るアメリカ』有斐閣)。
1955年12月、アラバマ州モントゴメリーでバスに乗った黒人女性ローザ・パークスが、白人に座席を譲らなかったために逮捕されるという事件が起きた。彼女の逮捕の知らせが伝わると、一部の黒人の間からバスのボイコット運動を始めようという声が上がった。そして、黒人たちは1年余りにわたってバス・ボイコットを続け、ついに、連邦最高裁が市バスの人種分離は違憲であるという判決を下し、ボイコット運動は勝利した。
この抗議行動のリーダーとして知られるようになったのが、当時26歳のマーティン・ルーサー・キング牧師であった。キングは1929年、人種差別の根強く残る南部のジョージア州アトランタに生まれた。父が牧師であり、彼もまた牧師になることを決意し、1954年、モントゴメリーの教会の牧師として着任、公民権運動にかかわるようになった。
その後、公民権運動は南部各地に広がっていった。公立学校への黒人入学を求める運動、食堂での差別撤廃運動でのキングの掲げる非暴力抵抗は成果を挙げた。1963年4月、キングは厳しい人種差別の残るアラバマ州バーミングガムで差別撤廃のたたかいを始めた。子供もを含む黒人たちのデモに対し、警察は高圧放水や警察犬という残酷な手段で蹴散らし、多数逮捕した。この時の様子は連日、テレビ・新聞によって全国に報道され、人々の関心は高まった。ついにケネディ大統領は、公共施設における人種隔離を違憲とする公民権法案を議会に提出することを約束した。
リンカーン大統領が奴隷解放宣言を出して100年目の1963年8月28日、首都ワシントンで「仕事と自由のためのワシントン行進」が行われた。全国各地から貸し切りバスや特別列車で人々が集まり、ワシントン記念塔広場は20万人の人波で埋まった。参加者の7割は黒人であったが、白人の参加もあった。
夕方になって壇上にキング牧師が姿を現すと、この日の集会は最高潮に達した。「今日、皆さんと、アメリカの国家の歴史に残る自由への大行進を共にしたことをうれしく思います」と語り始めると、聴衆は引き込まれていった。演説も半ばにさしかかったとき、キングは原稿にはない即興の言葉で「私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤い丘で、元奴隷の息子と、元奴隷所有者の息子が、兄弟愛の同じ食卓につくのです」(荒このみ編訳『アメリカの黒人演説集』岩波文庫)と語り続けた。演説が終わると万雷の拍手と歓声がわき起こった。このあと、公民権法の議会通過、学校の人種隔離廃止、雇用の際の人種差別を禁止するための連邦政府の措置などの要求が「ワシントン大行進」の目的であることを宣言し、大集会は幕を閉じた(鳥塚義和『授業が楽しくなる歌と演説』日本書籍)。
64年、ようやく公正な雇用、公共施設での差別禁止をうたった公民権法が制定され、同年、キングは最年少のノーベル平和賞を受賞した。さらに翌年には、公正な選挙を実施するための投票法も成立した。
キングは68年に暗殺されてしまうが、人種差別の問題に平和的な手段で立ち向かい、世論を動かした功績は大きい。
今、世界はアメリカ発の金融恐慌の行方に不安を感じている。しかし、次代の若者らには、混沌を恐れずに、歴史からの教訓をもとに明るい未来を切り開いていってもらいたいと願うばかりである。
※20年間の長期にわたり、読者の皆様、そして浦安ニュース社の皆様、本当にありがとうございました。
(歴史教育者協議会)
