2008年11月01日
<第19回浦安文学賞奨励賞>
シシシシシ
野村 勇
田中曽女・画
<のむら・いさむ>=昭和24年4月、東京都生まれ。青山学院大文学部卒。中学校の国語教師を経て、現在は都立図書館の嘱託員。墨田区在住。
1
担任が昇降口まで追いかけてきたが、出てはいけない時間に学校の外に出るのはあっけないほど簡単だった。
家には戻りたくなかった。きっと担任から電話が入る。母親が家にいなければ、母親がパートタイムで働いているクリーニング店に電話をかけるだろう。電話を受けた母親は店の人に何度も頭を下げ、自転車を必死にこいで家に帰ってくるだろう。母親はぼくの部屋のドアをノックする。いきなりドアを開けたりはしない。ぼくがドアを開けると、そこに背の低い母親が立っている。悲しそうな顔をした母親がそこに佇んでいる。母親は、ぼくが学校でしたことを、ぼくが話し出すまで待っている。そんな母親に、防犯ブザーのアンケートがあり、担任に「はっきりしない人ね」と言われたから、学校を出てきたなんてぼくは言えない。
ぼくは校門を出て、学校の黒いフェンス沿いに歩いた。道を挟んで、学校の反対側に藍川が流れている。ぼくが通っている中学校の名も藍川で、校歌にも出てくる。校歌の中の藍川は江戸時代の綺麗な川だが、目の前の藍川は堤防のギブスをはめられた黒い運河だ。コンクリートで固められた堤防は高くて、簡単には上れない。
学校のフェンスが途切れる。右に曲がれば家の方角だ。ぼくは左に曲がった。
藍川にかかる石の橋を渡った。
五分くらい歩いた。
三叉路の角に工事現場があった。長細い鉄板が屏風のように続いている。鉄板の横をたどっていくとやがて鉄板がなくなって、橙色と黒の縞模様のバリケードになった。鉄板が囲っていた内部が見えた。敷地の奥の方に、煙突が一本立っている。黒くすすけた古びた煙突。煙突の根っこのところに、コンクリートの塊や折れ曲がった鉄の棒が積み上げられている。人影はない。ぼくはバリケードを乗り越え、中に入った。
鉄とコンクリートの山に向かって歩きながら、ぼくは煙突を見上げた。藍の湯。銭湯の跡だった。
ぼくは銭湯に入ったことがない。しかし、思い出せば、たしかにここに銭湯があった。お寺のような入り口。脇に、四角い、プレハブみたいな建物がくっついていた。中に大きな洗濯機が並び、ベンチの上に雑誌が見えた。小学生のとき、夜、自転車で通りかかったことがある。蛍光灯が点いていた。誰もいなかった。入ってすぐの床に、雑誌が落ちていた。持って帰った雑誌をどきどきしながら開いた。写真のページの女性たちは生々しかった。それよりも、線で描かれた、漫画の中の女性に震えた。
ぼくは瓦礫の小山を、ぐるっと廻っていった。コンクリートの塊に腰かけると、高い鉄板が鼻の先に迫っている。見回すと、あたり一面、白いタイルの欠片が散らばっている。鉄板の上に空があった。水色のような、灰色のような空。
ここなら人の目に触れないとほっとしたとき、独りなんだ、と思った。自分から学校を出てきたくせに、いまさら弱気になっていた。
胸のあたりがひりひりする。ぼくは、鞄から煙草とライターを取り出した。
煙草を吸うようになってから、一年は経つ。胸がひりひりしたときに煙草を吸うと、ひりひりがまぎれるような気がする。このことは親にもまだ知られていないし、学校でも見つかっていない。もしぼくが煙草を吸っていると知ったら、先生たちはきっと驚くにちがいない。「まさか、孝之が?」と。ぼくは目立たないタイプの人間だ。自分を知っている。
だから、さっき、学校を出てきたことについても、先生たちはたぶん首を傾げているにちがいない。
ぼくは今日まで、親や先生たちをただ見てきた。見て、湧いてくる思いがあったとしても、それを唇の外に出すことはしなかった。胸がひりひりしても、叫んだり、行動に移したりしなかった。ただ、人に隠れて煙草を吸った。そうすると、ひりひりが少し、先の方に遠のく気がした。
煙草に火をつけた。美味しいと感じたことはないが、吸い方にはもう慣れた。匂いがつかないように、そして指に色がつかないように、気を遣うことにも慣れた。
吐き出した煙が揺れて流れていくのを、ぼうっと目で追っていると、低い声が耳のすぐ近くで響いた。ぼくは思わず立ち上がろうとした。
今度ははっきり、男の声が聞こえた。
「こんな時間にこんな所にいていいんかい」
声は、廃墟のような風景の向こうから聞こえてきた。とっさにぼくは煙草を捨て、靴の先でもみ消した。
背の高い男が煙突の陰から出てきた。浮き出た頬骨。しらがまじりの髪。
ぼくはそっと鞄を引き寄せた。
「待て。いいから待て」
![]() |
男は片手を上げ、ぼくを制した。
「とって食いやしねえ、安心しろ」
すぐ近くの瓦礫の上に腰を掛けた。
胸をどきどきさせながら、ぼくは男を見守っていた。すぐにでも走り出せる体勢で。
「銭湯、取り壊されちまったんだなあ。煙突が見えたから車を降りてみたら、この様だ。思わず座り込んじまったら、いろいろ浮かんできてな」
男は微笑ってみせた。そして、背広のポケットから煙草を取り出すと、箱を振って一本頭を出し、
「やるか?」
ぼくを試すように見た。
ぼくはぶるっと首を振った。
「そうかい」
煙草をくわえると、銀色の、重そうなライターで火をつけた。ぼくの煙草とは違う辛い匂いが漂ってきた。男は美味そうに深く吸い込んだ。
「あんちゃん、藍川中だろ?」
ぼくは警戒して、応えなかった。
「学ランの校章、覚えてるよ」
男はまた薄く微笑った。
「こいつ、誰だと思ってるんだろ?」
その通りだった。厚い指輪。とがった革靴。黒い背広。会社員のようには見えない。
「昔、この辺りにいたんだ」
男はゆっくり煙を吐いた。
「もう一度訊くが、あんちゃんは、どうしてこんな時間に、こんな所にいるんだ」
それから急に、ぼくに向かって腕を伸ばしてきた。びっくりして立ち上がろうとしたぼくの手首を男が掴んだ。ぼくの体は、型にはめられたように動かなくなった。
「言ってみな。それとも、藍川中に一緒に行くか? おたくの生徒がヤニ吸ってましたって、引き渡してやろうか?」
2
ぼくは男に話した。話しにくいこともあったけれど、話した。話しはじめると、自分でも驚くほど言葉が浮かんできた。ただ、両親に関しては、話せなかったこともある。
*
今朝、出欠の確認をしたあと、担任が防犯ブザーを出し、頭の上に掲げてみんなに見せた。町の小学生と中学生全員に配布された白い防犯ブザー。ちょうどパソコンのマウスを小さくしたような形で、紐を引っ張ると高い音が出る。
女子生徒が間違って鳴らしたのを聞いたことがある。そのとき、ぼくには、「マウス」が笑っているように聞こえた。なにを笑っているのか分からない。けれど、なにかをあざ笑っているような気がした。
「今朝、教育委員会から通知があったので、これからアンケートをとります」
担任が声を張り上げた。担任は音楽の先生だ。授業のときはソプラノで歌うが、ふだんはかさかさした声をしている。
担任が声を張り上げても、三年C組の生徒たちはほとんど反応を示さない。
頬杖をついて、つまらなさそうに教科書を開いている。やたらと大声でしゃべっている。机に突っ伏している者もいる。アンケートがとられるようになったころは、「えーっ」とか「またかよ」という声が湧いたが、今では担任の顔を見ているのも面倒くさそうだ。
防犯ブザーが配られたのは、町の小学生が、独りで下校しているところを車で連れ去られたからだ。小学生は深夜、路上に放置された。それ以前から不審者が何度も出ていたので、大きな問題になった。そのとき、首長が防犯ブザーの配布を決めた。
ブザーが配られて三ヶ月くらい経ったころ、調査が始まった。なぜかというと、議会で、議員が質問したのだそうだ。「現実に、どれだけ子供たちがブザーを携帯しているのか。携帯している子供が少ないのであれば、税金の無駄使いであり、首長の人気取りだ」
調査がいつ行われるのか、校長先生にも分からない。ある日突然、教育委員会から連絡が来る。
調査が始まって、数ヶ月経つ。生徒たちとは反対に、最初のころは先生たちの方が無関心だった。防犯ブザーを持ってくる生徒が少なくても、自分たちには関わりがないと考えていたのだろう。適当に人数を数え、事務的に報告しているように見えた。だが、しだいに、学校の様子が変わってきた。朝礼で、校長先生が、「命の大切さ」について話したことがある。その話の締めくくりに、校長先生は、防犯ブザーを必ず持ち歩きましょうと、優しい声で言った。「安全のため、ご家庭でも防犯ブザーを携帯させるようご指導ください」そんな見出しの文章が、学校だよりに毎月載るようになった。クラス毎の防犯ブザー携帯率も発表されるようになり、先生たちも変わりはじめた。
「クラスのパーセンテージが低いと、私の指導力を疑われるってことになるわけ。だから、みんな協力して」
三年C組の担任もそんな風に言い、首を傾けてみせたりした。
その結果、「持ってさえいればいいんだろう」と、とにかく鞄に放り込んでおくことにした生徒も増えたし、鞄の中まで覗かれるわけでもないので、「持っています」と嘘をつく者も増えた。そのせいだろう、三年C組の携帯率は最近百パーセントに近い。担任は単純にその数字を信じているようにも見えるし、実態をほじくり出すのも面倒なので、信じている振りをしているようにも見える。
*
調査をいつされても、ぼくの答えは決まっていた。ぼくは、配布されたその日から防犯ブザーを持ちつづけてきた。それも、小学生がランドセルにぶら下げるように、通学鞄に防犯ブザーを結びつけて。そんな男子生徒は、三年生の中には、ぼくのほかには誰もいない。誰もいないけれど、ぼくは気にしない。鞄の底に入れていたのでは、いざというとき役に立たないからだ。鞄に放り込んでおくより、持つ意味が確実にある。同じ持たされるのなら、意味が少しでもある方がいい。
そんなぼくを「女みてえ」と言う同級生もいるが、そんな言葉にいちいち反応する気も起きない。大人しい。神経質。女っぽい。オカマ。小学生のころから、ぼくを評する言葉は、だいたい決まっていた。
だが、今朝は、どうしたらいいのだろうと思った。
机の横に提げた鞄に、いつも付けている防犯ブザーが、今朝はなかったから。
*
昨日の夜、父親が、下の部屋で酒を飲んでいた。昔バスの運転手をしていた父親は、今は生協の仕事をしている。毎日酒を飲んで帰る。週に一度は必ず、深く酔う。深く酔うと、父親の眼は淀んでくる。瞬きがなくなる。
普段は無口な父親が、黙っていた時間を取り返そうとするように、唇をゆがませ、言葉を吐き始める。
昨日の夜も、母親に向かって、これまで何度も口にしてきた言葉をなぞり始めた。母親が何年か前に起こした出来事。年下の男のために作った借金。その返済を肩代わりした父親。母親は年下の男との関係をまっさらにして、父親のところに帰ってきた。母親にとっては終わった出来事が、父親の中では終わっていない。何度も問い詰める。何度も何度も蒸し返す。それでも、まだ足りない。
トイレに行こうとして、二階の自分の部屋から廊下に出たときだった。
「行くな。ここにいろ。そこに座れ」
居間で、父親が叫んでいた。
「俺は責めちゃいない」
母親の顔が眼に見えるようだった。父親の視線を避けて横を向いた顔。笑っているわけではないのに、その頬にはえくぼが浮かんでいる。冷たく、諦めたような片えくぼが刻まれている。それが父親をいらだたせるのかもしれない。
「責めているんじゃない」
父親は、唇をなめるような口調で繰り返す。
「ただ、俺は、ただ」
父親が言いよどんだとき、母親がなにか言った。ひそめた声なので聞き取れない。その声にかぶせるように、父親が怒鳴った。
「うるさい。黙れ」
同時に、なにか割れる音がした。
ぼくは思わず階段を駆け下りた。
居間のドアを手で突いて開けると、母親が床に腰を落とし、ソファに顔を伏せていた。その母親の髪の毛を父親がつかんでいた。振り返ってぼくを見ると、父親は母親の髪をそっと放した。父親の眼が赤かった。母親がすっと立ち上がり、髪に手を当てながらキッチンに入っていった。ぼくもキッチンの方に行こうとすると、父親がぼくの肩を片手でつかんだ。肩に指が食い込んだ。
「なんでもない。二階に行ってろ」
重い声だった。
「でも」
ぼくはやっと一言発した。
「話をしているんだ」
父親はぼくの肩を揺すり、突き放した。ぼくの体が壁に当たった。
「二階に行け」
父親はソファに腰を落とすと、酒の瓶をつかんで引き寄せた。ぼくはテーブルの上を見た。白い皿が割れ、食べ物が散乱している。
「大丈夫だ。安心しろ。なにもしない」
酒を口に運ぶ父親を見つめながら、ぼくは居間を出た。
居間のドアをわざと開けたままにして、ぼくは階段を上がっていった。ゆっくりと。
階段を上がりきる直前だった。
「やめて」
母親の、切るような声がした。
ぼくは自分の部屋へ急いだ。部屋の床に置いてあった鞄を拾い上げると、階段をほとんど飛び降りた。
居間の中央に二人がいた。父親が母親の髪を手に巻きつけ、その顔をテーブルの上に押し付けていた。母親の顔の近くに、皿の破片がある。母親の両手が、おぼれる人のようにもがいている。父親の赤い眼は、もうなにも見ていないようにさまよっていた。
ぼくは鞄にぶら下がった防犯ブザーをつかむと、紐を引っ張った。
シシシシシシシシ。
「マウス」が笑った。
父親が不思議そうな顔をして、ぼくを見た。母親が父親の手を逃れ、玄関の方に走った。
*
防犯ブザーごと鞄をその場に投げ出して、ぼくは二階に駆け上がった。
部屋に入ってからもブザーはしばらく鳴り続けていたが、やがて、息が絶えるようにふっと止んだ。
部屋の鍵をかけ、ベッドにもぐりこみ、体を固くしてじっとしていた。
忘れていた尿意が戻ってきた。しばらく我慢していたが、耐えられなくなり、そっとドアを開けた。家全体が静まり返っていた。
急いでトイレを済ませ、再びベッドに入ったが、寝付けそうもなかった。
消えたはずの防犯ブザーの音が耳の奥で鳴っていた。人をあざけるような高笑い。ブザーは父親を笑っているのだと思った。
笑え。もっと笑え。
ぼくは布団から抜け出した。電気は点けず、机の引き出しの奥を探った。煙草をみつけ、窓を開けると、冷たい夜の空気と、表通りを走る車の音が入ってきた。
一本の煙草を、時間をかけて吸い終わると、ようやく胸のつかえがとれたような気がした。少し眠れるような気がした。
*
アンケート調査が始まった。
「まず、今日、防犯ブザーを持ってきた人」
担任が訊くと、待っていたように、手がいっせいに挙がった。宿題をやりながら小さく片手を挙げている者。腕を高く上げ、小ばかにしたようにひらひらと手を動かしている者。
ぼくはふと、手を挙げてしまおうかと思った。どうせ嘘をついても、なにも起こらないのだ。だが、ぼくの手は机の下に重く垂れたままだった。
「次。忘れてきた人」
今、手を挙げるべきなのだろうか。いや、ぼくは単純に「忘れてきた」わけではない。持って来れなかったわけがあるのだ。
今朝、居間に下りていくと、誰もいなかった。父親はすでに出勤し、母親は部屋にいる様子だが、顔を見せなかった。テーブルにぼくの朝食が用意されてあり、いつもぼくが座る椅子に通学鞄が載っていた。あのとき父親が壊してしまったのだろうか、鞄の持ち手に結び付けていた防犯ブザーはなくなっていた。
一言では伝えきれない事情がある。それなのに、アンケートのときには、1か2か、あれかこれか、簡単に分類されてしまう。
廊下側に座っている女子が二人手を挙げた。正直に答えているのだろう。
「あなたたち、忘れないようにしなさいね。ブザーを持っていて、鳴らしたおかげで不審者が逃げてったっていうケースもあるのよ」
指導のチャンスが来たとばかりに、担任は嬉しそうに話している。防犯ブザーが配布されたときも、この調査が始まったときも、しらっとしていた担任が、今はブザーの携帯を熱心に勧めている。
女子生徒は二人とも、体を小さくして担任の言葉を黙って聞いている。
調査はあっけなく進行していく。
数を足した担任が、
「手を挙げていない人がいるわね、誰?」
と言って見渡した。
ぼくは背筋を伸ばし、担任をまっすぐに見ていた。隠れるつもりはない。ただ、どうすればよいのか、自分でも分からないのだ。
担任と目が合った。
担任がボールペンの先をぼくの方に向け、
「孝之、あんたじゃない?」
明るい声を出した。この人に呼び捨てにされることに、ぼくはまだ慣れていない。
何人かがぼくの方に顔を向けた。
「どっち?」
返事をしなければ、と思う。しかし口が開かない。
「持ってきたの?」
ぼくは首を振って否定した。
「じゃあ、忘れたのね?」
「違う」
思わず言っていた。小さな声だった。
教室のざわめきがいつか消えて、みなが、ぼくと担任とのやり取りに注目し始めた。ぼくはできれば担任に正確に伝えたいと思った。ブザーが今どうしてないのか、その理由を。けれど、それを、どう説明すればいいのだろう。どのような言葉を遣えばいいのだろう。しかもみんなの前で。
担任が耐えられないように、
「なによ、はっきりしない人ね」
言ったとき、ぼくは黙って立ち上がっていた。音を立てるつもりはなかったが、椅子が意外に大きな音を立てた。クラスのみんなの視線が、全てぼくに向いたような気がした。
ぼくは鞄を持ってドアに向かった。
「どうしたんだよ、孝之」
親しい男子生徒の声が聞こえたが、振り返らず、ぼくは廊下に出た。ドアを閉めた途端、教室の中でどよめきが弾けた。笑い声も混じっている。
廊下には人の姿がなかった。ワックスの塗られた床が光っている。
前のドアから担任が出てきて、ぼくを呼んだ。ぼくは階段を降り、昇降口まで走った。靴を履き替えていると担任が追いついてきた。
「あんた、わけがわからない」
歌声に近い高い声だった。
靴にようやく足が納まった。走れる。ぼくは昇降口のドアを押し開け、校門に向かった。ぼくの名をソプラノで叫ぶ担任の声がまた聞こえた。それだけだった。
*
小学三年生のときの、温泉宿でのその記憶は、父親が家で荒れるようになったあと、ぼくの中にたびたびよみがえってくる。
隣の布団が、高く盛り上がっていた。その中から、女のくすくすと笑う声が洩れてくる。布団は右左に揺れて、ときどき畳を伝わってこちらに響いてくるような男の声もする。
夜中に目を覚ましたぼくは、生き物のように動く布団をじっと見つめていた。布団の中で父親と母親が遊んでいる。
あのとき、布団の中の父母に、ぼくは嫉妬を覚えていた。父親に対してなのか、母親に対してか。おそらく、二人に対して、ぼくは敵意を感じていた。自分のいないところで二人が楽しそうにしている。二人にとって、自分を必要としない時があったのだ。二人は二人で満足している。父母という人間と、自分という人間との距離を初めて知ったのが、あの温泉の夜だったのかもしれない。「独り」の感覚をあのとき初めて知った。
ぼくの小学校卒業が近くなったころから、家が普通ではなくなってきた。
父親と母親がそれまでは見せなかった部分を見せるようになった。父親は酔って大きな声を出すようになり、母親は人前で泣くようになった。温泉宿の布団の中で密かに笑い合っていた男と女の生肉や赤い血が、どろっと外にはみ出し、流れ出してきたように思えた。
「やめて」
母親を殴打しようとする父親の腰に、しがみついていったことがある。
父親はぼくをあっけなく振り払い、床に頭を打ち付けたぼくの首の辺りを、スリッパの足で踏みつけながら言った。
「いいか、女みたいな声を出すんじゃない」
小さなころから、「優しい」「女の子みたい」と言われて育ったぼくのことを、もしかしたら父親は嫌っているのかもしれない。そう感じたその日から、ぼくは父親に向かっていくことがなくなった。と同時に、ぼくの父親に対する思いも閉じていった。閉じた心の中で言っていた。
じゃあ、おまえは男らしいのかよ。母さんを殴る、おまえは。
3
話の途中で、男は、つかんでいたぼくの手首を離した。
ぼくが話を終えても、男は黙っていた。黙って、周りに散乱しているタイルの欠片を、とがった革靴の先でつついたり、寄せ集めたりしていた。
「四十年も前だ」
急にそう言った。
「この先の藍川、あの運河に、俺、はまっちまったんだ」
男はポケットに手を突っ込み、煙草を取り出した。煙草に視線を落とし、しばらく男は黙った。それからまた話しはじめた。
「ちょうど、あんちゃんくらいのときだ。学校で、繁華街の、でかい映画館まで歩いて映画を見に行った帰り、あの運河沿いを歩いてきたんだが、俺、おちゃらけて堤防に上がったんだ。よじのぼっていって、よしゃあいいのに堤防の上を走って、そのあげく足をすべらせて川に落ちてしまった。誰かが物干し竿を持ってきて、なんとか救い上げられたけど、ヘドロで全身真っ黒よ。臭いの臭くないのって。そのとき運び込まれたのがこの銭湯だった。藍の湯のおやじさんが、ザバザバ豪勢に湯をかけてくれて、おまけに石鹸を泡立てて、体のすみまで洗ってくれた」
男はそこで初めて気付いたように、ぼくを見た。まっすぐに、強い目で、ぼくを見た。
「それでな、孫か誰かの服を着させてくれて、牛乳を飲ませてくれたあと、そのおやじさんが、俺を思いっきりなぐったんだ。いつもの俺だったらつっかかっていくところだが、なんと、俺は泣いちまったんだ。痛くてな。なんか、痛くてな。なぐられた顔だけじゃなく、痛くてな」
男は痩せた顎を上げて、灰色のような、水色のような空をちらっと見た。藍の湯の煙突も、目の隅に映っていただろう。
「銭湯のおやじさんになぐられて、しばらくは大人しかったが、そのあとは、またヘドロに逆戻りだ」
「ふ」と笑って、男がライターで火を点けようとした。ぼくは思わず男の手からライターを取っていた。とまどったように、男の手が泳いだ。男がぼくを見た。
ライターの蓋を開け、親指をこすりつけ、火を起こした。勢いよく、橙色の火が点いた。火をかかげると、男は煙草をくわえた顔を近づけてきた。
男がふうっと煙を吐いた。
その横顔を見ていたぼくは、自分もそんな風に、美味そうに煙草を吸ってみたくなった。
鞄の底の、しわしわになった箱からぺしゃんこの煙草を取り出し、唇に挟んだ。男のライターが、ぼくの手の中でジッと音を立てた。そのとき男がぼくの手を振り払い、どなった。
「中坊が、ヤニなんか吸ってんじゃねえよ」
ライターと煙草が斜めに飛んでいき、あっと思ったときには突き上げられ、ぼくは横の鉄板にきつく押さえつけられていた。
男の硬い腕が首に食い込んでいる。
「俺が不審者だったらどうする? 防犯ブザーはないんだろ。ないなら、どうする?」
男の熱い息が、ぼくの鼻に、口に、かかる。
「叫べ! 抵抗しろ! 体をはれ!」
苦しくて、ぼくはあえいだ。隙間風のような音がぼくの喉から出た。すると、男が突然腕の力を抜いた。ぼくは地面の上にずるずるとずり落ちていった。
ぼくの目の前に、男の足があった。頭の上の方から、男の声が降りてきた。もう、静かな声になっていた。
「俺が言えた義理じゃないが、お前、なんでおふくろさんを守らない? ブザーの紐なんか引っ張ってないで、どうしておやじさんに向かっていかない? 今日もそうじゃないか? なぜ先公に向かっていかない? なぜ逃げる? なぜ生身でぶつかっていかない?」
*
それからまた、ぼくと男は、鉄とコンクリートの山の陰で話をした。
話をしても、男が今なにをしている人なのか分からなかった。分かったことは、やっぱり普通の会社員ではないということと、この町に戻りたくても戻れない事情があるということだった。
男は瓦礫の陰から出ると、工事現場の真ん中に立った。そして振り返り、もう一度煙突を見上げた。それからぼくに向かって片手を上げ、道路の方に出ていった。
男が去ってからも、ぼくは煙突の真下に立っていた。たった今あったことが、ほんとうのことなのか、男はほんとうにこの場所にいたのか、疑いながら。
だが、ぼくの手の中には、男がくれた銀色の重いライターがたしかに在った。
「これ、とっとけ」
別れ際に、男はライターをぼくに渡した。
「調査ってえのか? そいつを適当にごまかしている奴らより、よっぽどあんちゃんの方が男らしいと、俺は思うよ」
そして、こうも言った。
「今はそう思えないだろうが、いつか、おやじさんを守ってやりたいと思う日がきたら、守ってやれよ」
シシシシシシシ。
防犯ブザーがぼくの心の中で鳴っていた。
「マウス」は父親を笑っていたのではなかった。「マウス」はぼくを笑っていたのだ。ただ紐を引っ張ることしかできないぼく。紐を引っ張ってなにかをしたつもりでいたぼく。そんな自分を、「マウス」は笑っていたのだ。ぼくは小さなマウスだった。
ぼくは、鞄の奥から煙草の箱と百円ライターを出し、瓦礫に向かって、投げた。
四時間目の授業は国語だ。間に合うだろうか。 (了)

