2008年09月01日
<第19回浦安文学賞奨励賞>
最後の仕事
小柳 なほみ
田中曽女・画
<こやなぎ・なほみ>=昭和36年5月、新潟市生まれ。主婦。同人誌「蒼穹」代表。浦安市北栄4在住。
取材メモを読み終えると、原稿の構成が決まった。理恵は、ノートパソコンに向かい、取材者のことを思い出しながら、キーボードを叩いた。パソコンの画面が次々と文字で埋まっていく。
――祖父が入院したと知らせを受けたときは、何も感じなかったのです。大正生まれの老体です。病気の一つや二つ、抱えていてもおかしくありませんからね。ですから、祖母から電話をもらったとき、何かのついでがあったら見舞いに行こう。これくらいの気持ちでいました。
しばらくして、入院が長引いているなー、と感じた私は、初めて祖父のことが心配になりました。そこで様子を見に行ったのです。
病室を訪ねて、愕然としました。個室の中央に置かれたベッド。そこにタコ足配線のように、さまざまな管につながれた祖父が横たわっていました。
呼吸、栄養補給、排泄を強制的に行う医療機械がついているのです。いわゆる延命治療が施されていたのです。
付き添っている祖母の話によると、最初に付いた栄養補給は、「患者に体力をつけるためだ」と医師の勧めがあったそうです。
それからいつの間にか、「患者が楽になるから」と、いろいろな機械が増えていったと言うのです。
祖父は鬼の面のように皺を寄せて眠っていました。
本当に患者は楽なのでしょうか? そして、平均寿命を越えて生きた祖父に、この処置は必要なのでしょうか?
全ての機械を外して自宅で死なせてやりたい。
入院したと連絡を受けたとき、すぐに駆けつけていれば……と後悔しています――
勢いがついた理恵の指は、ピアノを弾くように止まることなく走る。
――この体験談からも分かるように、患者側が医療に対して無関心であると、知らず知らずの間に延命治療が施されていきます。
これを拒否したい場合は、事前に文書で意思表示をしておくことを勧めます。
「延命治療を拒否する」この文章を医療機関に提示した人の九十五パーセントは、その意思が尊重されているというデータがあります――
いい原稿になったと思う。理恵は満足していた。少し休憩してから、文章を読み直し、誤字脱字をチェックすれば完成する。明日の〆切には充分間に合うだろう。
彼女は、二DKのマンションに一人暮らし。一室を仕事部屋にしていた。
窓の前にスチールの机をドンと置き、壁一面を書籍で埋め尽くしている。カーペット敷きの床には、整理しきれない本や雑誌が山積みになり、さらに取材メモや鞄が乗っかっていた。
窓の外では、この部屋と同じような雑然とした街が広がっている。無秩序に建てられたビル群が、夜空に輝く星の存在を忘れさせる。
こんな風景を見続けて、もう三十年になる。
大学進学のために上京し、そして就職した。無我夢中で働いて、気が付けば長い年月が流れてしまった。
今は、医療ジャーナリストとして、そこそこ名を知られるようになっている。
故郷の両親にとっては、自慢の娘なのだが、いまだに独身だというのが、心配でもあり世間体の悪さでもあった。
携帯の着メロがセカセカと鳴った。「早く出ろッ」と言っているようなリズムだ。
慌ててバッグから取り出すと、液晶は実家の番号を表示している。
「あれ、兄ちゃん。珍しいね、なしたの?」
家族と話すときは、自然と故郷の言葉が蘇る。
「オフクロ……、入院さした。肺炎だと。……もう、長くねぇーろ」
沈んだ声が、ぽつり、ぽつりと語る。涙をこらえている様子が伝わってくる。
「市民病院だろ。明日一番で行くすけね」
母は数年前に癌を患い、寝たり起きたりの生活をしていた。
旧盆に会ったときは元気そうで、父と同居している兄一家と共に、食卓を囲んだ。
だが、理恵が東京に帰った後は、床に付く時間が長くなったと連絡をもらっていた。
実家は稲作農家だが、兄夫婦は会社勤めをしている。母の世話は父一人で看ているはずだ。
寡黙で頑固で働き者、これといった趣味もない典型的な農家の主、それが父だ。
きっと、不平不満をこぼさず、ホームヘルパーの手も借りずに、ふんばっていることだろう。
逆に母は革新的で、農村部の女性であの年代にしては珍しく、高校を卒業している。
毎日、新聞を隅から隅まで読み、茶の間には、読みかけの文庫本をいつも置いている。そんな人だ。
三十年前、四方を田んぼで囲まれた村から東京の大学へ、ましてや女の理恵が進むなどとは、前代未聞の出来事だった。
それを可能にしたのは母の後押しがあったからだった。
「女子(おなご)だからこそ、手に職が必要なんだて」というのが、母の口癖だ。
兄ちゃんは高卒だし、仕送りが大変だから就職するという娘に対し、
「今は、学歴がものをいう社会だ。大学卒業の肩書きは邪魔にならねえて」
と進学を強く勧めてくれたのだった。
夜明け前にマンションを出て、もより駅まで歩いた。この街では、こんな時間でも、田舎の昼間の賑わいだ。皆、顔も知らない他人ばかりだけど、気落ちしているときには、この人混みはありがたい。
始発の新幹線に乗った。予想に反して満席だった。
自分の故郷にゆかりのある人が、始発に乗って行かなければならない人が、こんなにいる。
少し不思議な感じがするが、「ホッ」ともする。何ともいえない安心感がある。
仕事仲間にも、隣近所にも、理恵の周りには、同郷の人はいなかった。
大都会で、自分は一人で頑張っている。そんな想いで、いつもいた。
関東からの玄関口、湯沢に入った。
この季節にしては珍しく快晴で、窓に迫る山々の美しさを際立たせていた。最高の見頃、燃えるような紅葉は過ぎていたが、落葉寸前の木々もまた、美しい。
駅に停車するたびに、乗客が少しずつ減っていく。それと同じように、空の色も変わっていった。
終点の新潟駅では、灰色の乾いたアスファルトと、それによく似た色の曇り空に出迎えられた。
九時前に病院に着いた。
入院病棟の廊下を行くと、朝食を終えた患者が自分でお膳を下げているところだった。
比較的、元気な人が多く、皆お揃いの青い縦縞の病衣を着ている。その上に雪国らしく、ほとんどの人が色とりどりの綿入れはんてんを羽織っている。
昨日の電話で教えられた部屋の前に立った。扉の横にあるネームプレートは一人分で、母の名前が記されてある。
ノックしてから、太い取っ手つきの引き戸を静かに開けた。すると、患者より先にさまざまな医療機械が眼に飛び込んできた。
キャスター付きの狭いベッドの周りに、心拍数、呼吸回数、血中酸素飽和度を測定する機械が置いてある。それらはみな、母の身体に繋がっている。
痩せ細った左腕には点滴の針が刺さり、鼻の穴には細いチューブが挿入されている。その上に酸素吸入を助けるための、鼻と口を覆う透明のマスクを付けていた。
眠っているのだろうか、それとも苦しいのだろうか、母は眉間に細かい皺を寄せて眼を閉じている。
傍らに、背中を丸めて座っている父の姿があった。
その身体は、以前よりずっと小さく、丸くなったようだ。置物のように動かず、じっと、母を見つめている。
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娘の理恵が部屋に入って来たのに、まったく気付いてないようだ。
そんな父のすぐ横まで進み、
「なじらね(どんな具合)?」
努めて明るく声を掛けた。
その声でやっと、父は顔を上げた。
「来たのか」
一言だけ言った。
それから無言で、自分が掛けているのと同じ丸椅子を差し出した。
寡黙の父は、遠方から駆けつけた娘をねぎらうこともなく、病状の説明なども話す様子はなかった。
「母ちゃん! 理恵だて!」
顔を近づけ大きな声で呼びかけた。
閉じていた眼がゆっくり開いた。目玉だけ動かして声の主を確認すると、またすぐに閉じた。
「つらい」と言ったように感じた。
いや、そんなことは分かっている。母の表情を読み取るまでもない。この病室の医療機械の数々を見れば分かることだ。
動脈血酸素飽和度は低く、心拍数は高い。その数値は、患者の呼吸がぎりぎりの線で保たれていると示している。医療問題を専門に扱う理恵にはよく分かる。
言葉を発するのも、眼を開けているのも辛いはずだ。
だが、どうしてやることも出来ない。肺炎は薬が効くのを待つしかない。何もしてやれない自分は、やはり父のように見守るしかなかった。
父も辛いだろう。
病院の備品の一つ、付き添い者用の簡易ベッドが部屋の隅に畳まれている。その上に薄い蒲団と皺一つないシーツが重ねてあった。
きっと父は休むことなく、この丸いパイプ椅子に座り、母を看ていたに違いない。
「父ちゃん横になれて、あたしが代わるすけ」
理恵は、簡易ベッドを広げ蒲団にシーツを掛けた。
だが、父は首を横に振って、母の傍から離れようとしなかった。仕方なく、理恵はまた父の隣に座った。
それから時間だけが過ぎていった。
病院の売店で買ったおにぎりやお茶にもほとんど手をつけず、娘との会話もなく、父は母を見守っていた。
この間、父は何を思っていたのだろうか。
節ばった指をぎゅっと結んで膝に置き、背中を丸めて、母、いや妻を見ている。
病状のちょっとした変化を見逃すまいとしているのだろうか? それとも、共に病と戦っているつもりなのだろうか?
そして、母はそんな父の存在に気付いているのだろうか?
理恵には、父のことも、母のことも、分からない。
何の前触れもなく突然、扉が開き看護師が入ってきた。
健康診断で肥満と指摘されそうな中年女性と痩せぎみと言われそうな若い女性の二人組だ。
中年の後ろにいる若い方は、透明な袋にパッケージされたチューブをステンレス製のトレーに載せて持っていた。
それが何であるか、二人が何をしに来たのか、理恵にはすぐ分かった。
「失礼します」の一言もなく、彼女らは母のベッドに近づいた。トレーを母の枕元に置くと、若い方が、使い捨ての薄いゴム手袋をはめた。
中年の方は、その様子をじっと見ている。手順に間違いはないか、一つ一つチェックしているようだ。
そして理恵もまた、そんな二人を観察していた。
若い看護師が、母のマスクを外しにかかった。
「あなたが交換するの?」
低く棘のある声で理恵が質問した。
マスクにあった細い指がピクリッと上がり止まった。二重(ふたえ)の大きな瞳が理恵を見た。
「鼻のチューブの交換をするんでしょう。今まで、何回の経験がありますか?」
鋭い問いかけに、返事が出来ないでいると、中年看護師が助け舟を出した。
「彼女はご覧の通り新人です。頼りなさそうに見えますが、正看ですから、安心してください」
穏やかに、暴れる患者をなだめるように説いた。
だが、理恵にはその言い方が気に入らなかった。
「私には、母の身体を使って、その新人に挿官の練習をさせるように見えます」
ぴしゃりと返した。
「それは……」
図星なのか、ベテランである中年の方も言い返せなくなった。
「それに、入院二日目の患者ですよ。なぜ、チューブの交換が必要なんですか? 栄養を流すチューブは通常一週間で交換でしょう。何か他に入れましたか? 水で溶けない散薬を入れて詰まらせましたか?」
病室に理恵の声が響き渡った。
中年は冷静を装っていたが、若い方は驚きを隠せないでいた。
理恵の眼は鋭く二人を刺し続けている。
それからしばらくの沈黙があって、
「……おっしゃる通りです」
うつむき加減の中年看護師が、消え入りそうな声で言った。
「では、ベテランのあなたが交換してください」
理恵はジャーナリストとして、これまでさまざまな医療問題を数多く取材してきた。
病院に都合よく扱われる患者がいた。それは、余命の短い老人に多かった。大切な母をその一人にするわけにはいかない。
夕方になると兄が勤め先の制服のままやって来た。
半開きにしたドアから、身体をやはり半分だけ入れて、
「親父、先生が話あるんだと。一緒に来てくれ」
と言った。
昨夜電話で話をしている妹には、一言もない。
父を出すために理恵が先に椅子から離れた。公立病院の個室には余分なスペースはない。
「理恵は母ちゃんを看ていてくれ」
と兄は言ったが、二人が部屋から出るとき、
「あたしも行く」と後に続いた。
一瞬、兄が迷惑そうな顔をしたが、理恵はまったく気付かなかった。
灰色のスチール机と折り畳み式の椅子が並んでいる小部屋に案内された。
表には「相談室」と小さなプレートが掛かっていたが、ソファーも花瓶もなく、いかにも、にわか作りと分かる部屋だった。
すぐに小太りの医師が入ってきた。ウールのスラックスにピン・ストライプのワイシャツ、その上に長い白衣を着ている。
病棟に詰めている医師の姿ではない。外出先から戻ったか、これから出掛けるかの、どちらかだろう。
主治医といっても、実際は部下の若い医師にまかせっきりで、母の病状などカルテを斜め読みにしているだけではないのか?
せり出した腹と白衣の下の洒落た服装に、理恵は「信頼」という文字を見い出せないでいた。
医師はすぐに母の病状を説明し出した。
父と兄は、既に何度か面談している相手なのだろう。だが、理恵は初めて会う。一言、挨拶させてくれてもいいだろうに……と三人を見ていた。
話は医師のペースで進んだ。
父と兄は、両手を膝の上にのせ、かしこまっていた。話の折々にうなずいている。頭を下げるたびに身体が前に揺れた。まるで、医師に対してひれ伏しているように見える。
医師と患者は、本来対等であるはずだ。
なぜ、もっと質問や詳しい説明を求めないのだろうか、傍で見ていて歯がゆかった。
だが、これはジャーナリストとしての癖なのだと、理恵は自分自身に言い聞かせ、抑えていた。
医師が本題に入った。
「近いうちに、人工呼吸器をつけた方がいいと思います」
抗生物質を何種類か使ったが、回復しない。むしろ悪化の状況にある。
血中酸素飽和度は一〇〇が正常だが、下降線をたどり現在は八〇。
「七〇台になったら考え時です」という提案だった。
提案というより、ただ家族の承諾を取りたいだけらしい。
理恵は横にいる父と兄の顔を見た。
「先生にお任せします」
父が頭を深く下げた。
兄もまた、
「よろしくお願いします」
と続けた。
理恵一人だけが、向かいの医師に横顔を見せる状態で、頭を上げていた。
「待ってッ!」
我慢し切れず叫んだ。
「あたしは、反対よ! 反対です。人工呼吸器はつけないでください」
後半は医師の顔を直視して言った。
人工呼吸器の装着は辛いものだ。口から挿官する方法と喉を切開してつける方法があるが、どちらも意識のある患者には辛い。
この機械は患者が自発呼吸をするときはその補助をし、それがないときは強制的に酸素を送り込み二酸化炭素を排出させる。
つまり、息をしなくなっても生かしておけるのだ。
「全種類の抗生物質を試したわけではないのでしょう。一種類につき四日は様子を見るものです。一、二日の入院でなぜ、こうもあっさりとあきらめるんですか?」
理恵は気持ちの中で、医師の襟元をグイッとつかんでいる。ピン・ストライプの襟を――。そんな乱暴な物言いだった。
「今、すぐにではありません。七〇台になったらと申し上げました」
迷惑そうな目付きと共に返ってきた。
それくらいで、ひるむ理恵ではない。
「ですが、人工呼吸器は患者の自発呼吸の気力を失わせますし……」
「やめれッ」
父が大声で制した。
「みんな、先生に任せればいいんだ。先生、よろしくお願いします」
再び、丁寧に頭を下げた。兄もまたそれにならった。
「では、そういう方向で」
医師は広げたカルテを一つにまとめて持つと、そそくさと出て行った。
「先生、気分悪くしたみてだな」
兄が誰にとはなく言った。
「理恵がはじける(でしゃばる)すけだ」
父は厳しい。
「母ちゃんが癌になってから、ずっと世話になっている病院だてがに、生意気な口利いて……」
「治せねかったッ!」
理恵の怒り声が響いた。
母は三年前、癌摘出の手術を受けていたが、全ては取り除けなかった。
「もう末期だ。そこに肺炎だ。兄ちゃんが電話で言ったように、もう、長くねーろ。だから、静かに送ってやろーて」
延命治療は拒否しようと話したつもりだった。
「なんてこと言うんだ……」
もともと元気のなかった父の顔から、さらに血の気が引いた。
「送ってやろう」という言葉を娘の意図とはまったく違う意味でとったようだ。
「安楽死させようってか?」
兄もまた父と同じように感じたのだろう。
「それとは、少し違う。延命治療はやめようって言ってるんだ」
理恵はイライラした。末期癌患者を抱えていながら、最期の迎え方について、まったく関心がない二人に腹が立った。
「人工呼吸器は、喉を切ってつけるんすけね。声が出なくなる。話が出来なくなるんすけね。つけたら二度と外せねーし、あんなもんつけて少しくらい長生きしたって、母ちゃんはちっとも嬉しくねーはずだ」
理恵は優勢に立つボクサーのように言葉のパンチを浴びせた。
「母ちゃんは死なねぇ」
信じられない答えが返ってきた。
「母ちゃんは死なね、治るんだ」
父は本当にそう思っているようだ。
兄を見た。父は正気なのか? と眼で質問した。だが、兄は何も返さない。
「医学は進歩してるんだ。今まで、治せねかった病気も、明日治せるようになるかもしれねぇ」
父は「生」のみに目を向けている。でもそれは、現実逃避しているだけだ。
「母ちゃんは、もう治らね。最期を迎えてるんだ。身体のあっちこっちに穴を開けて生かしておくのか、安らかに送ってやるのか、どっちかを選択するときなんだッ」
理恵の力説は、父に届かない。表情を変えずに娘を見ている。いや、なんとも非道な人間になったもんだと、悲しんでいるのかも知れない。
「尊厳死という言葉くらい知ってるろッ! あたしは、それを言ってるんだ。二人してよーく考えなせッ」
理恵は部屋を出た。引いたドアを閉めるとき思いっきり強く引っ張った。バタンッと大きな音が響いた。
廊下にいた数人の看護師が振り返ってこっちを見た。理恵は何事もなかったように、すました顔をして母の部屋へ戻った。
病室に入ると母の傍に寄り、父が使っていた丸椅子に腰掛けた。
母は相変わらず辛そうな顔をして眼を閉じている。
血管が浮いて見える痩せた手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「母ちゃん」
静かに呼んだ。反応はない。もう、そんな体力も気力も残ってないのかも知れない。
陽が落ちて、窓の外は真っ暗になっていた。
そこへ、綿毛のような白いかたまりが、一つ、二つ、と落ちてきた。
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窓の灯りに照らされて、輝きながらゆっくり落ちていく。雪だ。
「……え、り……え、りえ、理恵、おきなせほら、初雪だよ」
「母ちゃん!」
身体を起こした母が、微笑んでいる。点滴もマスクも外れている。
「顔色いいね。花柄のパジャマ、似合ってるよ」
「もう、縦縞の病衣なんてごめんだよ」
「うん、そうだよね。オシャレな方がいいよね」
理恵は、実家を出る前の、高校生時代の気分になっていた。目の前の母は、その頃のように元気になっている。
「人工呼吸器、反対してくれたんだね。ありがとうね」
「うん、反対してよかった。こんなに元気になるんだもの。必要なかったね」
「それは、違うて」
「えっ、どういうこと?」
母は、真剣な顔付きになって言った。
「理恵の気持ちはありがたいよ。あたしだって、脈打つだけで生きながらえるなんて、ごめんだよ。でもさ、父ちゃんは……」
「父ちゃんが、何?」
「心のさ、準備が出来てないんだよ。〝母ちゃんが死ぬ〟という現実を受け入れるのに、まだ、時間が掛かりそうなんだよ」
ひと呼吸置いて、母は続けた。
「だからさ、つけるよ、人工呼吸器。父ちゃんの気が済むまで」
思いがけない話だった。
「いいの? 本当にいいの?」
「ああ、いいよ。それにさ、ほれ、新米さんの練習にもなるしさ」
「そんな……」
母は装着の練習台になるというのだ。それをからっと笑いながら言った。
「練習させなきゃ、いつ覚えるんだい。腕のいい看護師や医師を育てるのは、案外患者なんだよ」
娘の手を取りさらに付け加えた。
「お前は頭のいい子だ。母ちゃんの何よりの自慢だ。だーすけ、ここは我慢してくれ。父ちゃんのことを解ってやってくれ」
「……………」
ビィーッ、ビィーッ、耳をつんざく音がする。理恵はハッと目覚めた。腰掛けたまま眠っていたようだ。機械のアラームが鳴り続いている。
母はマスクをして、点滴で繋がれ、眠っていた。
看護師が駆けつけて来た。機械の数値と母の様子を見て、「先生を呼んできます」と言ってまた出て行った。
それから父と兄が入ってきた。アラームはまだ鳴っている。二人は緊張した面持ちでつっ立っている。
理恵は改めて母を見た。
青白く頬のこけた顔がそこにある。眉間に皺を寄せて、痛みと戦っている姿がそこにある。
もう、充分だて。母ちゃんはがんばった。これ以上苦しむことないてッ!
心の中で叫んだ。
眉間の皺が少し動いた。
娘の叫びを拒否するように――。
「我慢してくれ……」
再び母の言葉が耳に広がった。
理恵は席を立ち、椅子を父に譲った。
「母ちゃんの最期は、父ちゃんに任せるわ」
相談室での勢いがすっかり消えた娘を父は不思議そうな目付きで見た。
「でもね、苦しめないでくれね。母ちゃんは、いつでも父ちゃんのことを一番に考えていたんすけ。いまでも、こんな状態でも――。だすけ、父ちゃんも、母ちゃんのことを一番に考えてくれね」
この言葉を最後にして、理恵は病室を出た。兄が何か言ったようだが、耳に入らなかった。
廊下で若い医師とすれ違った。さっきの看護師が駆け足で後に続いていた。
ナースステーションの前を通ると数人の看護師があわただしく動いている。それを横目に見ながら、まっすぐ歩いた。
いつのまにか待合室に出た。この時間ではもう誰もいない。照明も消され、常夜灯のみがオレンジ色の光をわずかに放っていた。
窓の外は雪。
闇夜に牡丹雪がこんこんと降っている。地面を覆い草木を白く包む。その量(かさ)はどんどん増していく。
理恵は窓枠にもたれかかって眺めていた。
「……母ちゃん、……強いね、りっぱだね」
どんな言葉を並べてみても、その深い愛情、奉仕の精神を称えられない。
「なあーに、最後の仕事だて」
母の姿が窓ガラスの向こうに浮かんだ。純白の雪を背景に、ふくよかな顔が笑っている。
花柄のパジャマが似合っていた。 (了)


