2008年08月01日

<第19回浦安文学賞奨励賞>
失われた魂
曽我田 宏次

田中曽女・画

<そがた・こうじ>=昭和43年8月、埼玉県生まれ。会社員。平成19年1月度日本文学館超短編小説大賞審査員推薦賞受賞。文京区在住。


 沼尻俊樹(ぬまじりとしき)は、かつて某プロ野球球団に属していた投手である。高等学校卒業と同時にプロ入りし、一年目からローテーション投手として活躍。見事七勝をあげ、新人王候補にもなった。将来のエースとして球団から期待されたが、不幸にも入団二年目にして肘を壊し、開幕早々一軍登録を抹消された。以後引退するまでの二年間、ファンに雄姿を見せることはできなかった……。

 球団を解雇されたのち、俊樹は都内のレストランで調理補助の仕事をはじめた。だがこの仕事には馴染めず、一年も経たないうちに辞めてしまった。その後警備保障の会社に入社して、警備員として働いた。けれどもこの仕事も彼の自尊心を満足させることはできず、二年あまり勤めた末辞めてしまった。
 彼は野球に関しては人並み以上の能力を有していたが、肘を壊し、球団から馘首された今では、特別な能力があるとは言い難い。少なくとも他人が評価し、十分な報酬を払ってくれるほどの能力があるとは言えない。周囲の者は現金なもので、一度落ちぶれた者になど目を向けようとしない。
 野球好きの人であれば、
「ピッチャーの沼尻さんですね」
 と驚きはするものの、単にそれだけの話で、現在の俊樹を有能な人物だと思っているわけではない。
 彼は職を転々とするようになって、段々気持ちがくさくさしてきた。人ともあまり言葉を交わさなくなっていった。用のあるとき以外はたいてい家に閉じこもってじっとしていた。しかし仕事をせずにぶらぶらしているわけにもいかないので、警備の仕事を辞めてしばらくすると、再び職探しをはじめた。求人情報誌を購入し、いろいろな職種を見ていったが、これはと思うものがあると、資格が大卒以上であったり、経験者のみの採用であったり、または極端に給料が安かったりした。
 何社か面接を受け、期待していたところが全て不採用と決まると、現実の厳しさが徐々に判ってきた。自尊心の強い彼も、自分はたいして価値のない人間だと自覚するようになっていった。
 その後四ヶ月あまり経って、彼はようやく情報処理設計の会社に入社することができた。もともとコンピュータに関する知識など皆無であったが、高等学校時代の恩師の手蔓によって、どうにか入社することができたのである。

 二ヶ月の研修期間を経て、彼は運用支援チームに配属された。運用支援とは、開発チームで作成されたシステムを安定稼動させるために、予期せぬ事態が出来したときの対応をしたり、システムだけではカバーしきれない部分の修正や改善、あるいは仕様に反したデータが持ち込まれた場合の対応を行ったりする業務である。
 俊樹が最初に命じられた仕事は、某銀行でシステム稼動しているJCLの修正であった。JCLとは、JOB CONTROL LANGUAGE(ジョブ制御言語)の略で、複数のプログラムを制御、管理するための言語である。JCL一本に対して、プログラム一、二本を割り当てるというのがだいたいの目安らしく、俊樹が修正を命じられたJCLの本数は全部で四百本以上にのぼった。
 この修正は、やってみるとなかなか骨の折れる作業であった。彼は今までパソコンを扱った経験がなかったので、文字の入力が極めて遅い。入力したい文字を探すのに数秒掛かってしまうこともあり、思うように捗らない。目は疲れるし、肩や首がむしょうに凝る。ただ今回の仕事は論理的な思考をほとんど必要としないため、仕事に行き詰まるようなことはなかった。俊樹はこの職場でなんとか働いていこうという気持ちを持っていたが、実際の業務に携わってみると、調理補助や警備員の仕事と同様、あまり楽しいものとは思えなかった。
 修正したJCLについて上司の確認が済み、承認が下りると、いよいよ本番環境へ移行された。ジョブは異常終了することなく順調に動いた。
 だが移行されてひと月あまりが過ぎた或る日、お客さんから苦情の電話が入った。納品したデータが復元できないというのである。データは通常暗号化し、磁気媒体に格納して納品することになっているが、お客さんごとに暗号鍵が異なっている。調査したところ、納品したデータは誤った鍵で暗号化されていたことが判った。今回移行したJCLの一部に不備があったのである。
 俊樹は主任の川井から呼ばれた。
 川井は彼の顔を見ると、
「なんでこんなしょうもない障害を起こすんだ!」
 と厳しく叱責した。
 主任は普段あまり口を利かない。寡黙な人間が突然怒り出したので、俊樹はびっくりした。
 会社は障害に対して特に神経をとがらせている。障害が多ければ多いほど、社会からの信用はなくなるし、ひいては注文そのものがなくなってしまう恐れもある。他社に差をつけ、勝ち残っていくためには、些細なミスをできるだけ抑えなければならない。
 お客さんに対しては、部長から詫びを入れ、直ちに再送用のデータを作成して発送した。その後主任を中心に、障害となった原因を追求するための緊急会議が開かれた。俊樹は運用チームに配属された当初、主任から障害に関して事前に説明を受けてはいたが、障害に対する意識はまだまだ低かった。
 川井は今回起きた事象を白板に書いていった。そして作業の割振り、作業の方法、確認の仕方などについて、ひとつひとつ検討していった。
 俊樹は主任から、
「今回のような不完全なJCLを作ったのはなぜ?」
 と問われて答えに窮した。
 考えても容易に答えが思い浮かばなかった。脇の下から冷たい汗が流れた。
 言うまでもないが、俊樹自身障害を起こしたくて起こしたわけではない。彼はそれなりに一生懸命作業を行ったのである。だがそんなことを訴えても仕方がないことは判っている。仕事をするのに一生懸命になるのは当たり前だから。彼はこうべを垂れ、押し黙ったまま一分近くも考えていた。そしてようよう口を開いた。
「……自分には、業務知識が不足していたからだと思います」
 川井は白板に、業務知識の不足、と書いた。
「じゃあ業務知識が不足していたのはなぜ?」
 主任は重ねて尋ねた。
「それは」
 と俊樹は言って、何と答えるべきか迷った。
「入社してまだ間がないので、知識のないのは当たり前かと……」
「じゃあそういった業務知識のない人間を作業に割り振ったのはどうして?」
 今度はチームリーダーである牧野という男に向かって尋ねた。
「……スケジュールが逼迫してきて、作業に当たる人間が不足してしまったためです」
 牧野は主任の顔色を窺いながら恐る恐る答えた。
「ではスケジュールが逼迫したのは?」
 川井は部下たちが答えるそばから、まるで意地悪でもするかのように次から次へと質問を繰り返した。
 俊樹は胸の内で、やれやれと思った。これから先、障害が起こる度にこのような尋問を受けなければならないのだろうか。あたかも罪人が、刑事から執拗な取り調べを受けているかのようだ。今回障害を起こしたことによって、お客さんに迷惑を掛けたのは事実である。その責任の大半は作業者たる俊樹にある。しかし正直なところ、このような会議には二度と出席したくないと思った。野球をやっていたころ、練習中に怠慢なプレイをして、監督やコーチから罵声を浴びせられたことがあったが、今になって思うと、そのような罵声のほうがどこか人間的な温かみが感じられる。それに比べると主任の追及は陰湿で、蛇のようだと思った。
「俺はなんでこんなところにいるんだろう?」
 主任から尋問を受けてやむなく返答している自分が情けなかった。何も言い返せない自分を腹立たしく思った。席を蹴って、今すぐこの場から立ち去りたいと思った。
 夕刻にはじまった会議は延々四時間以上にもわたって行われ、終わったときには九時を回っていた。それからその日に割り振られた作業を片付け、社を後にしたのは十二時過ぎだった……。

 家に帰ると、缶ビールを飲み、深夜まで営業しているスーパーで買ってきた弁当を食べた。けれども腹が減っているわりには少しも美味くなかった。安物の弁当なのでそれほど美味いわけもないのだが、味覚がまるで感じられなかった。
 俊樹の脳裏には、考えまいとしても主任の意地悪い顔が浮かんできた。振り払っても振り払っても、その顔は容易に消えなかった。どうしてここまで苦しめられなければならないのだろう。これならレストランや警備保障の会社で働いていたころのほうが、よほど気持ちが楽であった。
 彼は野球で口を糊していたころのことを思った。好投して、チームの勝利に貢献し、翌日の新聞に写真入りで大きく報じられていたころのことを――。あのころは気持ちも充実していたし、心の底から頑張ろうという気持ちが湧いてきた。全身全霊を傾けてひとつことに打ち込むことができるのを幸せに思った。今とは比較にならないくらい肉体の疲労はあったが、気力で十分に補うことができた。ファンの声援も後押ししてくれたことは言うまでもない。右肘を壊しさえしなければ、順風満帆な人生を歩んで行けたはずだった。
 俊樹はくどくどと過去のことを思い返してもどうにもならないことは判っていたが、それでも振り返らずにはいられなかった。それほど今日の出来事は彼の心に重くのしかかっていたのである。
 夕飯を食べ終えるとすぐに寝床に入った。体が疲れているにもかかわらず、目が冴えてなかなか眠ることができなかった……。
 彼はせっかく入った会社なのだからと、その後も我慢して出勤し続けた。ミスを起こさないよう細心の注意を払って作業を行った。だが障害を起こしたことによって、主任が俊樹のことを要注意人物と見なしているらしいことが判った。
「あいつは危なっかしいからくれぐれも注意をしてくれ」
 リーダーの牧野に主任はこんな注意を与えているようだった。この会社ではたった一回の失敗がその人間の信用を失わせるようだ。俊樹はできる限り自分を殺して、上司から言われたことだけを忠実にこなすよう努めた。しかしそういった姿勢は、ややもすると仕事をやっている目的や意義を見失わせ、また仕事そのものの興味を根本から失わせるのだった……。

 ――或る朝、彼は会社に行くべくいつもの電車に乗った。けれども下車する駅に到着しても、吊革に掴ったままじっとしていた。ドアが閉まり、電車は動き出した。終点に到着すると別の電車に乗り換えた。車内はがらがらに空いており、悠々と座席に腰を下ろすことができた。車窓から見慣れぬ景色を眺めていたが、十五分も経つとうとうとしてきて、いつしか寝入ってしまった。
 それからどのくらいの時間が過ぎただろう。ふと目を覚ますと海が見えた。日の光が海面に反射して眩しかった。海と反対側は小高い山が迫っている。

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 とある駅に電車が停車し、俊樹は下車した。会社の始業時間はとうに過ぎている。これまで無断欠勤をしたことは一度もなかったが、仮病を遣って休むのは嫌だったので、敢えて電話はしなかった。
 駅舎を出て、南に向かって真っ直ぐ歩いて行くと海岸に出た。白い砂浜が海を抱えるようにして広がっている。右手には岬が見える。彼は何の気なしにそちらへ足を向けた。側まで来るとかなりの高さの断崖で、優に二十階建てのビルぐらいの高さはあると思った。
 辺りには大きな岩があちこちに転がっており、そのひとつに腰を下ろした。打ち寄せる波が断崖に音立ててぶつかり、その度に大きなしぶきが上がる。頭上では幾羽もの海鳥が舞っており、折々海面に下降してきては魚を捕らえようとしている。彼には午前の暖かな日差しも、海から吹き付けてくる風も心地好かった。
 俊樹は時の経つのも忘れてぼんやり岩に腰を下ろしていたが、ふと立ち上がると、波打ち際に黒いものが落ちているのに気が付いた。一羽のカラスが嘴でしきりに突付いている。何だろうと思って側へ近づくと、そこには黒猫の死骸が横たわっていた。足を投げ出して横倒しになっており、前足の付け根から背中のあたりにかけて、数箇所血が滲んでいる。死んでからそれほど時間は経っていないように思われる。カラスはこの猫を食らっていたのだろう。他の生き物の餌食となるのは哀れであるが、しかしそれが自然の摂理だ。黙って見ているしかない。自分だっていつ野垂れ死にをするか判ったものではない。
 彼は近くの食堂に入った。エビフライ定食を注文し、先ほど見た猫の死骸を思い出しながら食べた。なぜか今日はいつもより食欲がある。最近は昼飯を抜くことだってあるのに、どうしたというのだろう。息の詰まりそうな職場で仕事をしなくてもいいという解放感があるからかもしれない。
 食事を済ませると彼は岬へ登った。
 頂からの眺望は素晴らしく、広々とした海に圧倒されるほどだった。青い空と濃い藍色の海とが鮮やかな対比をなしている。遥か沖合いに目を遣ると、船の航行しているのが見える。はじめは豆粒ぐらいの大きさにしか見えなかったが、だんだんと陸のほうへ近づいて来て、それが割合大きな船であることが判った。船はやがて岬の西側の港に入って行った。日が西の空に傾いて、辺りが夕映えに照らされるころまで海を眺めていた。その晩彼は街中にある安い旅館に泊まった……。

 翌日、朝食を済ませた俊樹は宿を出て散歩をした。
 会社へ電話をする気は毛頭なかった。これで無断欠勤二日目である。上司の川井はそろそろ心配しだしたころだろう。
 彼は人通りの少ない商店街をぶらぶら歩いて行ったが、途中釣り具店があったのでそこに立ち寄った。竿だの浮きだの、釣り道具一式を買って店を出て、海へ向かった。
 岩の転がっている辺りまで歩いて行って腰を下ろし、早速糸を垂れた。釣りをするのは小学生のとき以来である。
 糸を垂れて間もなく、浮きが引いたので竿を上げると、魚が掛かっていた。昔よく釣ったシマイサキである。灰色がかった体の側面に数本の黒い帯があり、なんとも懐かしい。体長は十センチにも満たない小さな部類だが、魚が釣れたことで子供のように喜んだ。針を抜いて、水を張ったバケツに獲物を放した。
 気をよくして、次の魚が掛かるのを待ったが、二十分あまり経つと再び浮きが引き、竿を上げると今度もシマイサキであった。晩のおかずがまた増えたと思った。彼はすっかり釣りに熱中し、昼が過ぎてもその場を離れなかった。結局シマイサキが七尾に、種類の判らない小さなフグが二尾釣れた。フグは毒があるかもしれないから海に放し、シマイサキだけを持ち帰った。
 彼は宿の女中を捕まえて、
「この魚を晩のおかずと一緒に出してもらえませんか」
 と言った。
「あら、ずいぶん釣れましたね」
 彼女はバケツの中を覗き込んだ。
「このお魚、どうやって食べるんです?」
「さあ、実は僕も食べたことがないんで判らないんですよ。調理の仕方は板場の人にお任せします」
 こう言って女中と一緒に厨房へ行き、料理人にバケツごと渡した。
 彼は空腹を覚えたので、昨日入った食堂へ行き、遅い昼食を摂った。

 宿へ帰ると、休憩室に置いてある朝刊を持って自室へ戻った。座布団を当て、新聞の頁を繰ると、「商事会社社員が上司を殺害」という見出しが大きく出ていた。記事の大要は、上司から仕事の不備を追及された営業部員が、会社のそばのスーパーで包丁を買い求め、オフィスに戻るや上司の背中を五箇所も刺したというのである。被害者は直ちに病院へ運ばれたが、出血多量のため数時間後に死亡。逮捕された営業部員は度々この上司から叱責を受けていたらしく、いつか仕返しをしてやろうと供述していたそうである。
 俊樹は記事の全文を読み、なんともいえない暗い気分になった。新聞を閉じ、畳の上にごろりと仰向けになった。彼はいっとき忘れていた会社のことを思い出した。
 記事を読んだだけでは、かの殺人犯の職場における状況を詳らかにすることはできないが、少なくとも上司を煩わしいと思っていたことは間違いない。この点に関しては、俊樹の職場における状況とよく似ている。それだけにこの事件はひと事とは思えなかった。殺害こそしていないものの、無断で会社を休み、こうしてこの街に逗留しているのは、ひとつには川井に対する抵抗であると言ってもよかった。
 俊樹は瞼を閉じた。
 すると主任の顔が脳裏に浮かび、
「今回のような不完全なJCLを作ったのはなぜ?」
 と詰問してきた。
 そして蛇のような目つきで彼を睨み付け、
「お前のような能無しは首だ!」
 と言って、彼の顔につばきを吐いた。
 俊樹は右腕を振り上げ、
「このやろう!」
 と叫びながら主任の横っ面を殴った。主任は殴られても平気な顔をして彼のことをせせら笑っていた。俊樹はまたもや右腕を振り上げ、力いっぱい主任の頬を殴った。腕に鈍い衝撃が走った。
 彼は何かに驚いたようにはっと体を起こした。腕に衝撃が走ったのは、膳の脚をしたたか打ったからである。どうやらほんの一瞬まどろんだ隙に悪い夢を見たらしい。

 宿の門を出て、彼は海と反対のほうへ歩いて行った。駅を通り過ぎ、民家の建ち並ぶ細い道を選って歩いた。道々あんな会社は辞めてしまえと胸の内で幾度も叫んだ。仕事をするのに苦痛は付きものだろうが、しかし気持ちの乗らない仕事をいくらやっても自分のためにはならないだろうと思った。もちろんなにがしかの金を得ることはできる。それでどうかこうか暮らしていくことはできる。だがそのような生活は、つまるところ金に首根っこを捕まえられた生活だ。魂などない。生き甲斐を失った人間は、嫌でもそのような生活を続けていかなければならないのだろうか。
 俊樹は路地をずんずん歩いて行った。百メートル以上も歩いて十字路に出ると、右に折れた。そこから数十メートル歩いて行った先は広い公園だった。
 公園では、小学校五、六年生くらいの少年たちが二人でキャッチボールをしていた。彼らはスローイングも、キャッチングもなかなか上手であった。やがて一人が座り、一人がピッチング練習をはじめた。綺麗な投球フォームから投ぜられた球は、少年の投げた球とは思えないほど威力があった。
 俊樹は彼らのほうへ歩み寄り、
「いい球投げてるね。小学生?」
「はい」
「でもちょっと力が入り過ぎだ。もう少し楽に投げてごらん」
 こうアドバイスすると少年の球の伸びは増した。
「そうそう。今の調子」
 少年は直観で、この年長者を野球の経験者――、しかも相当高いレベルでやっていた人であると思ったようだ。
 かつて俊樹にも、この少年たちのような時代があった。あのころは野球が楽しくて、それこそ朝から晩までグラウンドで泥まみれになっていた。苦しい練習であっても、その苦しさが活力を与えてくれた。それは自分にとって後々肥やしになるということが判っていたから。
 少年は真剣な表情で一球一球を投げ込んでいる。そのひたむきな様子を見て、彼は羨ましくなってきた。
「済まないが、俺にも少し投げさせてくれないか」
 少年のひとりがたまたま硬式球を持っていたので、その球でキャッチボールをはじめた。徐々にスピードをあげていったが、肘に違和感はなかった。もう三年以上も球を投げていなかったので、自然と治ってしまったのかもしれない。球団を解雇されてからは野球と縁のない生活を送ってきた。
 さすがに小学生相手に本気で投げることはできなかったので、コンクリートの壁に向かって投げはじめた。ワインドアップモーションから投ぜられた球は、びしっと唸りをたてて直進し、壁に当たった。少年らは彼の投げた球の速さに度肝を抜かれた。俊樹は言うに言われぬ快感を覚えた。
 想像していた以上に球は走っている。プロの投手として活躍していたころとさほど変わりはないように思えた。これだけの球が投げられれば、まだまだプロの世界でやっていけるのではあるまいか。もともと肘さえなんともなければこんなところで塞ぎ込んでいる俺ではない。今ごろは第一線で活躍しているはずだと思った。
 だが二十球も投げるとスタミナがなくなってきた。だんだん息が荒くなってきて、下半身がふらついてきた。腕が縮こまってくるのが判り、練習不足であることは明らかだった。
 壁のストライクゾーンに、彼は捕手が座っているものと想像して投げ続けた。しかしその捕手の顔がなぜか主任の顔に見えた。かつてバッテリーを組んでいた正捕手――、彼は今でもプロの世界で活躍しているが、その捕手の顔を思い浮かべようとしてもすぐに主任の顔に取って代わってしまう。せっかくいい心持で投げているのに、どうして思い出したくもない輩の顔が浮かんでくるのか。
 主任は、先ほど俊樹が夢に見たようなせせら笑いを浮かべながら、
「まだまだ」
 と叫んだ。
 元プロの投手である彼に向かって、
「こんな球で通用すると思ってるのか!」
 と怒鳴り付けた。 
 俊樹は舌打ちし、
「うるせえ!」
 と吐き捨てるように言いながら、渾身の力を込めて投げた。

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 だがそのとき、今まで何ともなかった腕に突然激痛が走った。投ぜられた球はワンバウンドして壁に当たり、俊樹と壁の中間あたりまで転がってきて静止した。彼は蹲って顔を歪めた。少年らは俊樹のもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「なに、なんでもないさ」
 俊樹は無理に微笑して答えたが、少年らは心配そうに彼を見守っている。
「腕、痛むんですか?」
「ふふ、まだ完治してなかったとみえる」
 彼はこう答えると、少年にグラブを返し、
「ありがとう」
 と礼を言った。
「君たちはくれぐれも怪我なんかしないようにな。怪我をした選手ほど惨めなものはない。俺みたいな人間はただのスクラップさ」
 少年たちにも俊樹の言わんとしていることが理解できるらしく、彼の言葉を真剣な面持ちで聴いていた……。
 辺りはそろそろ黄昏はじめていた。茜色に染まった空を、一羽のカラスが鳴きながら飛び過ぎて行く。
「野球が本当に好きだったら、苦しくても絶対に逃げ出すんじゃないぞ。好きなことをいつまでも続けられるほど素晴らしいことはない。打ち込むものが何もないなんて、そんな人生はあまりにも淋し過ぎる」
 この言葉は彼の心境そのままだった。
「それじゃあ頑張れよ」
 俊樹はこれだけ言って、少年たちのもとを去った……。

 ――翌朝、食事を済ませると宿の料金を精算し、駅へ向かった。切符を買って、ホームに立ったものの、どこへ行こうという当てもない。
 五分ほど経つと下り電車がホームに入って来たので、俊樹は乗車した。ベルが鳴ってドアが閉まると、電車は動きだした。
 彼はぼんやり外の景色を眺めていたが、電車がホームを出てしばらくすると海が見えた。今日も天気が良く、朝日が反射してきらきらと輝いている。電車が西へ進んで行くに連れて、先日てっぺんまで上った岬が見えてきた。岬のすぐ側では、岩に腰を下ろして釣り糸を垂れている人がいる。平日の朝っぱらから釣りをしているなんてずいぶん暢気な人だなと思った。
 しかしそう思いながら、
「自分だって仕事もせずにぶらぶらしているじゃないか」
 と呟いた。
 間もなく電車は岬を通り過ぎ、トンネルに入った。車窓には何の気概も感じられない男の顔が映っていた。
 彼はこれからどうすればよいのかまるきり判らなかった。今後どのような生活をしていこうと、心が晴れることはないような気がした。少なくとも、自分の手でこれだと思えるような実質のあるものを掴まない限り――。
「俺は落ちるところまで落ちるしかないのだろうか。一生腑抜けのまま呻き続けるしかないのだろうか」
 彼はこんなことを思った。
 当てどない旅は、恐らく生ある限り続くのだろう。それで自分の人生は終わってしまうのだろう。しかしそれも仕方のないことだと、俊樹は胸の内で呟いた。
 電車はトンネルを通り抜け、ガタゴトと音をさせながら、彼の意思とは無関係に、どこまでも走り続けた……。
 (了)