2008年07月01日

<第19回浦安文学賞佳作>
三十年目の湯宿
真野 桐子

田中曽女・画

<まの・きりこ>=本名・辻裕美子。昭和25年9月、香川県生まれ。臨床心理士。第100回コスモス文学新人賞掌編小説部門奨励賞受賞。市川市在住。

          

「お祝いに、温泉旅行でもどうだ」
 景子の五十三歳の誕生祝の席だった。小さなレストランで祝杯を挙げながら、夫が切り出した。こうして二人で食事をするのは、実に久しぶりのことだ。まして一緒に旅行など思ってもみないことだった。
 五十代に入ってからますます多忙を極めていたのは、化粧品会社の商品開発部に勤める景子だけではなかった。医療機器の営業マンである三つ年上の夫も、ここ数年、家には「寝に帰るだけ」の状態で、典型的な「すれちがい夫婦」だった。
 旅好きな景子は、出張で地方に出かけるときには、一足延ばして小さな湯宿で羽を休めてから帰る。海際のホテルがお気に入りだった。一風呂浴びて独り静かに波の音を聴いていると、数か月分の疲れが吹き飛んだ。それが景子の密かな健康法だった。
 出不精の夫は、仕事の虫であり、本の虫でもあった。知識は豊富で、うんちくを述べ始めると止まらなくなるようなところがあったが、聞いていて無駄な話はしない。ときに下手な駄洒落は言うが、下世話な世間話や愚痴は言わない。他人の話に耳を傾けるのは苦手で、聞いているふりをして、次に言う自分の話を考えている。よくある知識人の典型だ。よく営業マンが勤まると思うが、外面はよく、仕事の上では他人にうまく話を合わせているようだ。
 誕生日とはいえ、夫の意外な提案に景子は目を丸くした。が、ここは素直に受け入れることにした。
「嬉しいわ。で、いつ」
「今度の週末」
「そんな急な」
 と言いながら、景子はもう手帳を取り出し、スケジュールを眺めていた。そこにはいくつかの予定が書かれていた。とまどいは一瞬にも満たなかった。何より優先すべきは夫との温泉旅行だ。夫とのにウエイトがあったか、温泉にウエイトがあったか、はたまた、先の「お祝いに」が効いたか、景子は週末のすべての予定をキャンセルしてでも、行くことに決めた。
「なんとかするわ」
 行き先はすぐに決まった。新幹線とバスを乗り継いで二時間半ほどで行ける東北の「秘境の湯宿」だった。磐梯山のふもとにあるその宿は、二人がかつて訪れたことのあるところだった。
 当時はまだ新幹線が通っておらず、特急列車と普通列車と路線バスを乗り継ぎ、ゆうに五時間余りかけてたどりついた。三十年前には、そこは確かに秘境の宿だった。
 いつの間にか山道は舗装され、近くを高速道路が走り、そして新幹線が通った。
「どうなったかな、あの宿」
「なつかしいわね」
「今なら簡単に行けそうだね」
「そうね」
 その夜、さっそく予約の電話を入れた。電話を受けたフロント係の男性の応答は、手馴れたものだった。そのよそゆきの声が、湯宿というよりも、観光ホテルを思わせた。
「変わったかも、あの宿も」
「宿の周りの原生林の散歩道、まだあるかしら」
 そこは、二人が初めて手を取って歩いた道だった。大きなブナの木陰で一休みしたとき、景子はプロポーズの言葉を聞いた。あの木陰、まだあるかしら。一週間が待ち遠しく思えた。その前に約束していた件をキャンセルしなくては。

 待ちかねた土曜日はすぐにやってきた。
 新幹線はすいていた。夏休みシーズンが終わり、紅葉時期には少し早い、そんな季節だった。上野から一時間余りで郡山に着き、そこからはバスに乗った。バスは高速道路を快適に走った。どんどんと高度を上げてゆき、じきに二千メートル近くある高原の中に入った。高速道路を下りてからの山間の道も、すっかり舗装されていた。
 終点で降りたのは景子たちだけだった。大方の人間は自家用車でやってくるのだろう。都心から近くなったとは言え、一軒宿があるだけで、周囲の森は深く、相変わらず「秘境の宿」にふさわしい光景だった。
 昔泊まった二階建ての和風の建物は今では旧館となっており、ほとんど使われていないようだ。そばに五階建ての洋館が建っている。それさえも外観の壁が少し傷んでいて、建ててからの年数の長さを思わせた。
 中に入ると、フロントに背広姿の男性が立っていた。景子がチェックインしている間、夫はトイレに立った。宿を決めるのも、乗り物を手配するのも、こうしてチェックインするのも、二人で旅するときの景子の役目だった。それほどに景子は旅慣れていた。

          

 通された部屋は五階にあった。少し古びた六畳の和室のほかに、窓側のスペースに小さな応接セットが置かれていた。
 夫は、部屋に入るとすぐに浴衣に着替え、一風呂浴びに出て行った。早くビールを飲みたい一心のようだ。
 景子は窓辺の椅子に腰掛け、しばらく外を眺めていた。
 遠くに見える山並みは、昔見た光景と同じだ。空の青さも変わらない。川の向こうに林が見える。それは、昔歩いた原生林の散歩道につながっているはずだ。明日の朝にでも行ってみよう。そう思いながら、ぼんやりと外を眺めていた。
 夕食の時間にはまだ間があった。そろそろ夫が戻ってくる頃だ。景子も一風呂浴びることにした。備え付けの、少しささくれ立った黄色いバスタオルと薄い手ぬぐいを手に持って部屋を出た。
 エレベータのドアの前に立ち、ボタンを押して、待った。
 ゆっくりとそれはやってきた。ぎしぎしと音を立てながらドアが開いた。中に入り、地下一階のボタンを押す。ドアは再びぎしぎしと音を立てながらゆっくりと閉まった。急に中が薄暗くなった。小さな電灯が一つ灯っているだけだ。ギーギーと不気味な音と揺れを伴って、エレベータは降下を始めた。隅に置かれていた古ぼけた椅子を見やりながら、ぼんやりと立っていた。途中で誰も乗ってこない。地下に着く直前に、一瞬、電灯が消えたが、すぐにまた灯った。
 揺れが止まり、音をたてながらドアが開いた。外に出ると、そこは薄暗いホールになっていた。湯殿はその奥にあるようだ。
 女湯の暖簾をくぐると、脱衣場には誰もいなかった。どの籠も空だ。景子はほっとして、籠の一つにバスタオルを投げ入れた。
 内湯で体を温めてから、露天風呂に続く通路に出た。裸で進むには少し戸惑うほどの長さだったが、かまわず進んだ。行き着いた先のドアを開けると、川沿いの景色が現れた。地下一階は川の側からするとまだ地上であり、露天風呂はその崖っぷちにあった。真下に見える川の流れは静かだった。向こう岸の木々が風に揺れているのが見える。遠くの山の縁に、夕陽が沈むところだった。
 露天の岩風呂に身を沈める。無色透明な鉱泉のほどよい温かさが、体を包み込む。身も心も生き返っていくのを感じる。そっと目を閉じる。あのときもこうやって目を閉じて湯に体を沈めたっけ。あのときと同じ川のせせらぎ。あのときと同じそよ風。あのときと同じ澄んだ空気。何もかもがあのときと同じ……。景子は満ち足りた思いで湯の中にいた。
 ガタッ。大きな音がして目を開けると、少し離れて大きな黒い塊が立っている。熊だ! 景子は仰天のあまり身動きが取れなかった。息を殺して、その塊を凝視した。のっそりのっそりと近づいてくる。絶体絶命! と思って、目をぐっと閉じた。
「あら、いらしたんですね。湯加減はどうですか」
 目を開けると、黒っぽい服装の大柄な仲居さんが、湯をかき混ぜていた。

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 「ええ、ちょうど、いい、です」
 しばらく心臓の高鳴りが治まらなかった。
 熊のような女性が出て行ったあと、やっと吐息をつくことが出来た。深く湯に身を沈めると、湯の温もりが固まった体を溶かしていった。

 落ち着きを取り戻すと、夕闇の迫る露天湯で一人ぼんやりと過ごした。ゆらゆらと立ち上る湯気の向うに笹の葉が揺れている。その脇の岩の間から注ぎ込まれている湯が、小さな波紋を描いている。遠くには、日の落ちたばかりの暗い山並みが幾重にも重なって見える。
 手足を伸ばして大きく深呼吸をした。湯が静かに揺れる。ああ、なんという幸せ……。
 と、そのとき、賑やかな人声が聞こえてきた。どんどん近づいてくる。
 ふりむくと、中年婦人が三人、同じ湯船に身を沈めようとしていた。三つの巨体が入り込んできたとたん、盛り上がった湯が押し寄せてきた。
 挨拶する糸口もつかめないほど、三人は話に興じている。景子は軽く目で合図を送り、少し隅に寄った。最後に入ってきた一人が、わずかに会釈をして返してくれたが、三人の声の大きさは変わらなかった。
 甲高い声のおしゃべりが、耳のそばで鳴り響いている。あの人ねえ、それでねえ、まあ、本当? いやだわねえ、うちの人ったらねえ、子供がねえ……自慢話に愚痴話、噂話。よくまあ続くことだ。都会からやってきた仲良し三人組の息抜き旅行なのだろうか。
 興ざめして、早々に湯船を出ると、内湯のほうに戻ることにした。さっき通ってきた長い通路を戻りながら、景子は思った。河馬(かば)は黙って湯浴みするものだが……。
 内湯の側に入ると、鏡に疲れたペンギンが一羽映った。三十年前のあのときとの違いは、白鷺の変身にあったことに、景子は気づいていなかった。

 洗い場で髪を洗っていると、背後で人が入ってくる気配がした。洗い終えて顔を上げると、少し離れた場所に初老の女性が座っていた。
「あっ」
 思わず小さく声を挙げる。さっきの通路から入り込んだのだろうか、蜂が一匹、目の前に見えた。手で払おうとした瞬間、攻撃の合図と思ったのか、蜂は景子のほうに向かってきた。
「ひえっ」
 慌てて湯船に滑り込む。体を洗っている女性はまだ気づいていない。声をかけようとしたとき、蜂は方向転換をして、まっすぐに彼女のほうに向かうと、その尻に、一刺し!
 一瞬の出来事だった。
 女性は、今まで景子が聞いたどの声よりも悲惨な声を挙げた。「おっ」とも「ぎゃ」とも「うっ」ともつかない、異様な叫びだった。
 それからが大変だった。彼女を抱えるようにして脱衣場に運び、浴衣を着るのを手伝い、自分も慌てて身支度をして、宿の者を呼びに走った。
 駆けつけた仲居さんはさっき現れた熊とは別の人だった。痛そうにかがんでいる女性をフロアに横たえさせ、浴衣をめくり、持って来た薬を太い指で塗り付けた。手馴れたものだった。腫れ上がっていた患部が幾分治まったのか、婦人は少し落ち着いたように見えた。
「大丈夫ですか」
 ほっと安堵しながら、初めて彼女の顔をはっきりと見た。
 誰かに似ている。そう思った。そうだ、二人が最初に暮らしたマンションの管理人の古狸のような女性だ。彼女は男性にばかり愛想がよく、猫なで声を出した。対して、同性の入居者には冷たかった。意地悪としか思えないような対応をすることもあった。そこから引っ越して随分経つ。彼女も年の頃だとちょうどこの位になっているはずだ。もしかして――そう思った瞬間、それまでの同情が急速に薄らいでいくのを覚えた。
「大丈夫ですね」
 言い放した声の冷たさに、景子自身が驚いた。
 一段落すると、湯殿に残してきた蜂のことが気になった。何とかしなくては。
 蜂は湯殿の窓枠に止まっていた。他人の空似かもしれないが、よくやったと褒めてやりたい気持ちだった。窓を開けて外に逃がしてやろうかと思ったが、待てよ、露天湯の側に回るかもしれない、と思い直した。熱湯を桶に注ぎ込むと、容赦なく蜂に浴びせかけた。蜂は湯に乗り、ばさりと床に落ちた。次に注がれた熱湯と共に、排水溝へと消えていった。

           

 箱の中にバッタを一匹入れて蓋をする。飛び上がるたびにその蓋にぶつかっていたバッタは、やがてぶつかるほどには飛ばなくなる。あるとき蓋がはずされる。高く飛べば外に出ることができるというのに、バッタはもう高くは飛ばない。自分の力を出そうとはしない。

 思うところがあって、景子は右側の毛布の縁を自分の体に巻きつけ、繭に包まれた蚕のようにして眠るようになった。数年前からのことだ。右隣に夫の布団が敷いてある。巻きつけられた毛布は、いわば防波堤。そこから先へは夫の手は進入禁止だ。
 何度か突破を試みた夫の手は、どこにもその隙間のないことに気づき、あきらめて引き下がった。
 今日は妻の機嫌が悪いのだろう、職場で何かあったのか。今日は疲れているのだろう、この頃忙しいみたいだ。今日は……、と考えたようで、そっとしておいてくれた。
 今日あたりは、と少し間をおいて試みても、結果は全く同じだった。防波堤はびくりともしない。その内側で景子はそ知らぬ顔で眠っていた。いや、眠ったふりをしていた。
「おいっ」
 と声をかけられて、
「おやすみなさーい」
 と、後ろ向きのまま返した。その、とぼけたようでいてどこか毅然とした言い方に、夫も眠りに入ることにしたようだ。
 そして次第に飛ばないバッタとなっていった。
 思うところがあって、景子は毛布を巻くのをやめた。数か月ほど前のことだ。蚕は姿を変え、繭から出る気になった。
 夫は相変わらず景子の右隣に敷かれた布団で寝ている。二つの布団の間の溝が、最近、大幅に縮められたことに、夫はまだ気づいていない。気づいても、関心はないかもしれない。
 バッタはもう飛ぶ意志をなくしていた。
 毎夜、それぞれの布団に入ると、二人はいつものように背を向けて本を読み始める。夫は睡魔が襲うまで読んでいる。最近、景子は、睡魔が来る前に本を置き、目を閉じる。毛布はもう巻かれてはいない。
 ある日、夫の側に手を伸ばしてみた。夫の肉厚の幅広い背中に触れる。何の反応もない。くすぐってみる。
「うっ」と、驚いたか笑ったかわからないような声。そのあとは、何事もなかったかのように読み進めている。
 とんとん、と背後から肩をたたいた。夫は本から目を離さない。
「もしもーし」
 おどけて言ってみた。
「亀よ、亀さあんよ」
 と夫が続けた。そして、何事もなかったかのように、本を読んでいる。
 世界のうちでお前ほど、と歌い出す気は湧いて来ず、景子はそっとその手を引っ込めた。背を向けて、静かに目を閉じた。
 いくら待っても、夫の腕は入ってこなかった。もうそこに防波堤はないというのに。
 その防波堤があるのかないのか確かめることもしなくなって久しい。夫にとって、それはあってもなくても、もうどうでもよいことのようだった。
 バッタの調教をしたのは景子自身だった。
 
 そんな二人が久しぶりに温泉旅行に出た。言い出したのは夫の側だった。
 もしかして、防波堤がもう存在しないことに、夫は気づいてくれているのかもしれない。気づいているからこそ、そんな提案をしたのかもしれない。
 景子は少し期待をして、旅行鞄にお気に入りのネグリジェを入れてきた。白い絹のネグリジェだった。思うところがあって、数年前に買ったものだった。
 夫はまだそれを着た景子を見たことがない。

           
       
 風呂から上がると、夫はもう部屋に戻っていた。冷蔵庫から取り出したビールをいっきに飲んだようだ。空のグラスを前に満足げな顔をしている。
「さっきお風呂場に蜂が入ってきてね」
 窓際にタオルをかけながら、話しかけた。
「ふーん」
 夫はテレビを見ながら返事をした。蜂の代わりに人でも熊でも、返答は同じだろう。夫は聞いていない。いつものことだ。
「でね」
 景子は声の調子を上げた。
「刺されたのか」
 聞いていたようだ。この時間だと面白い番組がないせいだろう。それとも、今日はいつもと違う心境なのかもしれない……。
 冷蔵庫に残っていたもう一本のビールを取り出すと、夫のグラスに注いでから、残りを自分のグラスに注いだ。今日の自分もいつもと違っている。
 家で二人で飲むときは、それぞれが好みの銘柄のビールを一本ずつテーブルに置き、それぞれのペースで飲む。景子が夫にビールを注ぐことはない。夫が景子に注いでくれることもない。そのほうが気が楽だ。二人ともそう思っている。だが、今日は何かが違う。
 あの古狸のおばさんを覚えているかをまず尋ねてみよう。いや、それは最後に気づいたのだから、順に話そうか……。
「刺されなかったのだろ。よかったじゃないか」
 迷うまでもない。夫が話を終わらせてくれた。
 夕食の時間が近づいてきた。景子は電話で地酒を注文した。夫は夕食の酒にもう一本ビールを所望した。それを飲み終えると景子の冷酒に手を出してくるのはわかっている。だから、地酒を頼むときに二本にしておいた。二人での旅ではいつもそうしていた。
 夕食の膳が運ばれてきた。猪(しし)鍋だった。
 夫は景子が手にしたグラスになみなみとビールを注ぎ、次いで自分のグラスを満たした。
「おめでとう」
 夫はにこりと笑って乾杯のしぐさをした。
「ありがとう」
 景子も、とっておきの笑みを返した。こんな顔、この人に向けるのなんて、何十年ぶりかしら。二人のグラスが軽く合わされ、澄んだ音が部屋に響いた。
 仲居さんが火を付けていった鍋が、ぐつぐつと音をたてはじめた。他に茶碗蒸しとかまぼことハムエッグが添えられていた。そこに生きのいい刺身がなくても、しゃれたオードブルがついていなくても、今の景子には不満はなかった。
 夕食を終えて、仲居さんが膳を下げるのと入れ替わりに、宿の男性が入ってきた。
「少し早いですが、お床を延べさせてもらっていいですか」
「ああ」
 テレビを見ながら夫が応えた。景子は立ち上がると、窓辺の椅子に腰を下ろした。外の暗闇の中から、虫の声が立ち上がった。
 ほどなくして分厚い木綿布団が二つ、部屋の真ん中に敷かれた。部屋が急に狭くなった。
「では、ごゆっくりお過ごしください」
「ああ」
 夫はまだテレビから目を離さない。釘付けになるほどの番組でもなさそうだが。
 テレビを見ているというより、ただ眺めているのだろう。音はその耳に届いてはいないようだ。目が半ば閉じかかっている。
「どうもありがとう」
 景子が窓際から声を掛けた。
 すっかり赤ら顔になった夫は、敷かれた布団にごろりと横になった。酔いが回ったようだ。弱くなったものだ、この人も。
 少し禿げた頭が上蒲団からのぞいている。その頭部はすぐに大きないびきをかき始めた。泥酔した猪のようだった。高いびきが聞こえ始めた瞬間、景子はテレビの電源を切った。

 景子はテレビが大嫌いだった。お買い得です、痩せます、おいしいです、といった情報を織り交ぜて、はやりのスターを登場させさえすれば、視聴率が上がるとでも思っているのだろうか。内容のある番組が少なくなった。美容番組にしても、染めて塗って付け足して、作り過ぎた顔は映像用にはいいが、直に見たらびっくり狸か仮装行列のライオンみたいで滑稽だとすら思っていた。素肌にはできるだけ刺激を与えないほうがいい、化粧品より内面を磨くことに金をかけるほうが大事だ、と本音では思っていた。営業では、化粧が内面までも輝かせる、などと歯の浮いたことを言っていたが。自宅にいるときは、スッピンで過ごした。もちろんテレビは見ない。
 夫は、たまの休日には、頭を休めるためだと言ってごろりと横になってバラエティー番組を眺めていることが多い。景子には雑音としかとれないテレビ音が、何時間でも居間に流れることになる。何度も逃げ出したいと思ったのは、夫からというより、この音からであったかも。

 こんな山の中の温泉宿の一室でも、夕方からテレビの音がしていた。これでは日常と変わらないではないか、と思ったが、今日はいつもより寛容でいられた。
 煮えた猪鍋の味は、まあまあだった。が、地酒はおいしく、食が進んだ。
外は夕闇に包まれている。
 テレビはそのうち消してもらおう。そして、一緒に川のせせらぎを聞こう。夜空の星を眺めよう。そうすれば、あのときの二人に戻れるかも――食事を済ませて、景子がそう思った矢先に、宿の者が布団を敷きに入ってきたのだった。
 その布団の一つに転がり込んだ夫は、今、高いびきで眠っている。
 景子は窓辺の椅子に腰掛け、川のせせらぎを聞いた。一人で夜空を眺めた。
 あのときと同じせせらぎの音。あのときと同じ夜空のきらめき。すぐそこに、あのときと同じがあるというのに、あのときと違って、男はさっさと眠ってしまった。
 一眠りした夫が今にもがばりと起き出し、酔いを醒ましに一風呂浴びに行くだろう。景子はそのときを待つことにした。

           

 夫は、朝まで起きなかった。
 昨夜、夫が眠った後、しばらく外を眺めていたが、本格的な眠りに落ちたことを見て取ると、体のほてりをとるために一風呂浴びることにした。
 誰もいない深夜の露天風呂は、景子に至福の時間を与えてくれた。湯の中でそっと目を閉じると、湯の温もりが体の芯まで伝わっていくのが感じられた。虫の声が川原から昇って来る。虫でさえ相手を求めてせつない声を挙げているというのに……。景子は黙ってその声を聞いていた。
 のんびりとつかった湯から上がると、宿の浴衣を着て、部屋に戻った。夫はぐっすりと眠り込んでいた。枕元の灯りを消して、大きく一つため息をつき、目を閉じた。

 ドアの開く音がして、目が覚めた。夫が朝風呂から帰ってきたところだった。
「もう一眠り」と言いながら、景子の布団に入ってきた。もう一眠りなら、自分の布団に入ればいいものを、とは思わなかった。そうとでも言わなければ、照れのある年代だ。それぐらいは理解できた。
 景子はわざと背を向けて、眠っているふりをした。待ってましたと男の胸に飛び込むほど、景子も若くはなかった。背後から風呂上りの香りがしてきた。夫の手の温もりが少しずつ胸のほうに近づいてくる。胸の拍動が感じられる。これは自分の拍動だろうか。それとも? 二つの拍動が重なり合い、やがて一つの潮流になろうとした。
 そのとき、けたたましく電話のベルが鳴った。二人は顔を見合わせた。そのままの姿勢で、鳴り止むのを待った。
 ベルは鳴り止まない。無遠慮に鳴り響く。二人ともどんどん興ざめしていくのを、互いの肌を通して感じていた。
「何もこんなときに」夫はつぶやいて、景子から体を離した。
 電話は、朝食の用意が出来たことを知らせるものだった。
「あとに、するか」
 夫が言った。景子は布団の中から頷いた。笑顔を作ってはみたものの、心の中は少し怨めしさが残った。
 急いで身支度を整えると、二階の大広間に下りて行った。朝食のおかずは焼き魚と納豆と海苔だった。
 朝食を終えると、当然、胃袋が膨張する。血液とエネルギーは、消化活動に優先的に使用される。若者ほどには血液循環がいいわけではなく、エネルギー量もほどほどに低下している、そんな年代の二人は、部屋に戻るとしばらくぼんやりと過ごした。景子は宿の案内文を見やりながら、夫はテレビのワイドショーを見ながら。
 二人のわきにはまだ布団が敷かれていた。その布団は中途半端に乱れていた。それが目に入っても、興をそそられることはなかった。
「さて」と、夫が声を掛けた。
 新車なら一度止まってもすぐにエンジンがかかる。が、中古車はそうはいかない。「さて」で、「あいよっ」と、その態勢に入ることが出来るほど、景子は器用ではないし、さほどの欲情を覚えているわけでもなかった。
 テンションを上げて元の時点にまで回復するには、それなりのムード作りから始めなければならない。それは少し大儀であった。時間がかかりそうだ。夫も同じ思いだったろう。
 腕時計をちらりと見た景子のしぐさに、
「帰り支度をするか」
 夫が安堵の色を浮かべて言った。
「そうね」
 景子もすぐに同意した。さて、とはそういう意味だったのか。
 刹那に燃えるのは、今を逃しては今度いつ会えるかわからない相手だからこそのこと。いつでも会える人と、時間のないときに急いでことを起こすこともない。そもそもことは起きるもので、わざわざ起こすものではない。――そう思いながら、使われることのなかったネグリジェを無造作に鞄の奥に押し込んだ。
「宿に荷物を預けて、そこらを散歩してみないか」
「そうね」

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 景子は気のない返事をした。今は何を言われても、そう応えたであろう。次のバスまでと言われようが、昼過ぎまでと言われようが、「そうね、そうしましょう」と。
 外は青空が広がっていた。初秋の澄んだ空気が二人を包んだ。橋を渡り、宿の向かい側の林に足を踏み入れる。小道はブナの森に続いていた。原生林のうっそうと生い茂っている中を、細い遊歩道が一本、通っていた。昔のままだった。
 鴛鴦に似た鳥が二羽、茂みの中で寄り添っているのが見えた。思わず両手で目をこする。もう一度見やると、鳥の姿はなかった。幻だったのか。景子はくすっと笑うと、夫の腕の中に腕を滑らせた。
 二人は腕を取って歩き始めた。三十年の間に、二人の歩調はかなりゆっくりになっていた。二人の足並みは、あのときよりも、揃っていた。
 (了)