2008年05月01日

<第19回浦安文学賞佳作>
癒しの館
水木 亮

田中曽女・画

<みずき・りょう>昭和17年8月、朝鮮生まれ。無職。第49回農民文学賞受賞。山梨県甲府市在住。

 若いときからの親友である深見が、こっそり教えてくれたその店に行くことに岩崎政義が決めたのは、妻が急逝して一年もしてからだ。はじめその老人相手の風俗店の話を聞いたとき、少し興味があったが行ってみようなどとは考えなかった。その昔足繁く通ったスナックにも、定年後はすっかり寄りつくこともなくなった。
 しかし、人間には心の隙間というものが存在する。なんともこらえようもない孤独な時間がしのびよる時がある。一人暮らしの彼がその店に出かけようと思ったのは、晩飯の支度をしようと夕暮れの台所に立った時だ。野菜炒めを作るために、フライパンに油を入れ、わずかばかりの豚肉を放り込みじりじり炒めながら、まな板で白菜を刻んでいた時、彼は突然涙がこみ上げて来た。なんだか無性に寂しくなったのだ。物事は勢いである。普段ためらわれることも、自分を突き上げるような激しい感情に襲われたとき行動することにためらいがなくなる。その日の彼は丁度そんな具合であった。
 午前中は夏のこの時期一坪農園で土いじりをする。午後は時間をかけて新聞を読み、町の図書館で過ごすか、日用品の量販店を回るのを趣味とする。夕方は一時間の犬の散歩。これがほとんど毎日変わらない。
 生前の妻は旅行が趣味で年に二度は外国旅行をした。トレッキングのグループに入り土日は大抵山登りで、彼女の頭の中は年中旅行と山登りの計画で一杯だった。彼女とは長年共働きで、定年を一緒に迎えたが、今度は一日中家で顔を付き合わせていなければならない窮屈な暮らしが待っていた。自分は平のサラリーマンで終わったが、妻は建設会社で働いていて、男性でもハードと言われている部門の管理職にもなった。仕事に対していつも前向きで意欲的な彼女にしてみれば、可もなく不可もない平凡な夫が、特にこれという趣味もなく、家の中をうろうろしているのは目障りである。年をとるにつれてますますつまらない男に見えてきたのだろう。
 妻は次第に彼の箸の上げ下げまで文句を言う。彼女がいらだつ分、いちいちそれに答えようとしなかったのがさらに彼女の癇癪に油を注ぐことになった。それでも時には彼も受けて立ち、華々しい喧嘩をしたのだが、おそらく自分の方が先に逝くことを思えば、介護の問題もそのうちでてくるだろうし、馬耳東風、淡々と泥の上澄みのように波風立てず、静かに最期までいくのがよいと考えていた。
 彼女はいわゆる熟年離婚も辞さない構えで、朝起きたら姿が見えなくなることも予想された。そんな元気な妻が突然山で具合が悪くなり、病院に駆けつけた時には山の仲間に見守られながら急性心不全で亡くなっていた。

 彼はウイスキーを生で一口流しこむとタクシーを呼んだ。クローゼットの引き出しに隠してある封筒から、万札を数枚抜いて、それはいざというときのために仕舞ってある虎の子の新札だったが、財布に入れた。それから教えられた店に電話し、名前と、これから行く旨を伝える。知り合いを聞かれたから深見の紹介であり、店は初めてであることも言った。店に行くときは必ず予約するように彼に言われたのだ。
 この時間、町の中心から郊外に向かう帰宅の渋滞が始まり、反対車線は混んでいるが、中心に向かうこちらの方の車線は空いている。いつも無愛想なタクシーの運転手は、この時間帯はなぜか機嫌がよく、今年はいつもより暑いことなど話しかけてくる。
 店は繁華街には近いがそこを少し離れた、文具店などがある商業地の一角のビルにあった。ここはしもた屋が多い。普段の彼はまったく何事にも弱気である。こういう時その手の店に入るべきかどうかあれこれ悩み、財布を探り、もしかして、強面の兄さんが出てきて居直る姿を思い浮かべ、つるし上げられ脅された自分が恐れ、怯え、最後は泣き出しそうになりながら、必死であやまる場面などが想像される。すると大抵はそのまま諦めてことをやめてしまうという情けない性格である。
 しかし今日の彼は違っていた。今日入れなければ死ぬまでそういう機会はないような気がする。店に入るのを練習するというものでもないだろう。思えばこの店を紹介してくれた深見は、高校からの同級生だが、同じA型でも自分より慎重で気弱な性格で、妻に尻に敷かれているのも彼以上である。深見でさえその店を経験しているというのだから自分に出来ない訳はないと彼は考える。
 その店は老人を癒すことを目的としているから、値段は高いが客により好みに合わせて相応の対応をしているという。
 相手の顔が見えない小窓の受付で、差し出されたメニュウで彼が選んだのは「愛人さんと楽しいお風呂とお食事」だった。一瞬、自分は何をしているのだろうと考え、ためらいが立ち上ってきたが、それをかき消すように顔の見えない受け付け嬢は小窓の奥で、
「このメニュウを選ぶお客さんは結構多いですよ。お薦めです」とやさしく言った。献立表には、他に「看護婦さんとお風呂でデイト」「女子高校生とQアンドA」などがあった。
 案内の声に従って進むと、そこは一旦紗幕のようなもので遮られていた。それを透かしてよく見ると、奥に昔風の一軒長屋がぽつりとあって、くすんだ色の瓦が夕陽に照らされている。小さな庭には季節の花である百日草が咲いて、物干し竿にはまだ取り込まれていない白いエプロンや男物のシャツが干されている。まるで芝居の舞台のセットような作りである。さらにそこにはポンプ式の古い井戸があった。長屋の前には植え込みの小道があり、さらにその道は奥の長屋に続いているらしい。なんという凝った作りだろうと、懐しくもあるが不安にもなった。
 突然、長屋のガラス戸が開いて、ジーパンにTシャツの若い女性が出てくると、庭の井戸をあおった。すると井戸から勢いよく水があふれた。その様子にふと懐かしい思いがするのと、若い女性が彼を見つけるのは同時であった。
「お帰りなさい!」
 彼女は政義の方に向かって明るい声をあげた。「ただいま」と思わず答えたくなるような明るさだった。
「暑かったでしょ」
 彼女の声に誘われるように彼は前に出た。
「ビールを井戸でを冷やしておいたのよ」
 色が白く、いわゆる「まるぽちゃ」と呼ばれるタイプの二〇歳前後の女性である。
「今時井戸なんて珍しいね」
「これで冷やすと冷蔵庫と違ってほどよくおいしいの」
 彼は驚き、そのポンプを懐かしい気持ちで眺めた。
「してみます?」
「うん」
 彼女は場所を空けた。柄を両手で掴み煽ると、手応えがあり水が噴き出してくる。おもしろい。手押しポンプの経験などいつのことだっただろう。それだけで彼は昔に返ったような気持ちになった。
「きれいな水でしょ」
「うん」
「疲れたでしょ、先にお風呂にします? それとも御飯?」
 その昔、妻が若かった頃いつも言われていた。思えば彼女も昔はこの女性のように可愛いらしい女性だった。歳月という悪魔が、神様が与えた彼女のいいところをもぎ取っていったのだ。
「やはり、まずビールね」
 彼女は彼の腕を両手で抱え込むようにしながら歩き、ガラス戸を明けた。タタキがありすぐに四帖半の部屋で、そこには台所がついている。部屋の卓袱台には小花が飾られ、壁にはカレンダーや柱時計があり、昔のサラリーマン若夫婦の部屋の作りである。
「座ってね」
 彼女はタオルに熱湯をかけて絞り、熱いのでそれを振り振りさまして、おしぼりを作り渡してくれる。顔や手をそれで拭っていると、ビールの栓を抜いてコップに注いでくれる。
「ツマミを作るからちょっと待ってね。それから私のこと好きな名前で呼んでください。ミチコっていいます。平凡でしょ。あなたは何て言うの?」
「岩崎」
「下の名前は?」
「政義」
「お侍みたいな名前ね。まーちゃんと呼んでいい? 私はみっちゃんね」
 彼女がいい笑顔で笑う。
 それから彼女は台所でコトコトやり始める。彼はビールを飲みながら部屋の中を見回す。深見は月に一度はここに来ると言う。その彼が言った。
「月に一度くらい行くのも考えてみれば安いものだ。妻ももうまともに自分を相手にしてくれないし、自分は旅行も何もするわけでないから、今まで働いてきて冥土の土産に悪くない。あそこは年寄りの癒しの店だ。まあ、老人慈善事業とでも言えばいい」
 彼女のきつめのジーパンの、はりつめた体型の割に形のよい尻の後ろ姿を盗み見ながら、深見がそう言った気持ちがわかるような気がする。
 老人はやさしい言葉に飢えている。この女性は若き日の妻を思わせるような輝きに満ちている。演技であろう。その演技に自分は騙されているのかもしれない。しかし、なんでもかんでもとにかく疑い、騙されまいと生きる老人は惨めだ。老人を騙して若者が金を稼ぐような世の中はまさに世も末である。そういう世も末の時代を生きながら、こういうところに来てまで騙されまい騙されまいとしている自分はなんであるのか。それなら来なければよかったのだ。彼女が親しく昔の妻であり、自分の娘のように接してくれるなら、こちらも酒の力を借りてでもその一時を楽しめばいいのだ。仏頂面をして過ごしてもしかたがないし金はもどらない。それなら遊べばいいのだ。
「ねえ、まーちゃん、井戸水のビールおいしい?」
「うん、ほどよい冷たさだね。年寄りはこのくらいがいいよ」
「よかった」
「ねえ、みっちゃんて呼んでみて」
 彼女が見つめる。愛くるしい目が光っている。
「みっちゃん」
「ありがとう、まーちゃん」
 彼女はまたまな板に向かう。その音を聞きながらビールを飲む。なんだか、落ち着く。ここで経験するのは懐かしいことばかりだ。こういう時間が昔あった。いま、ここで素直に自分をゆだねれば、なんという温かい世界だろう。向こうが演技ならば、自分もそのなかにはいればいい。そうすれば母親の羊水にいるような安心が自分にもたらされるのだ。
 彼女はほとんど化粧をしていない。自然である。それは意識的にそうしている演出かもしれない。もしそうなら見事であると思う。
 目をつむる。彼女が皿を食卓に置く。おかずの匂いがする。彼女の座るときのはずんだ息づかいが新鮮に感じられる。御飯の湯気があがる音がする。漬け物は大根と人参のぬか漬けが彩りよく並び、みそ汁の匂いもする。朝の光が差し込んで、部屋は明るく、時々彼女は顔をぶるっとさせる。ああ、それは若き日の妻だ。彼女が機嫌がいいときの仕草である。
 目を開くと卓袱台には、オカカがかけてある冷や奴、枝豆、脂ののった生鰺の焼き物、肉じゃが、茄子と瓜のぬかづけ、みそ汁、それに小盛の御飯である。
「まーちゃん、ぬかづけ、私が作ったの、食べてみて」
 確かに市販の漬け物とちがい、素朴というか塩気が足りないぬかづけで、茄子も胡瓜も彩りがまだらで見た目はよくないが、これはこれで楽しめる。彼女は私が食べるのを興味深そうに見つめながら食べ始める。
「おみそ汁、味がうすかったかしら」
「ちょうどいいよ」
 確かにうすいがそう言ってみる。
「まーちゃんてやさしいのね」
 彼女が笑う。妻のみそ汁は辛かった。
「お酒にします?」
「ロックで」
 いつもは焼酎のお湯割りだが、いつもと違うものを飲みたい。彼女が台所に立つと、ビールがまわってきたのか少しゆったりした気分になった。
「まーちゃんいつもなにをしているの?」
 彼女が氷をアイスピックで突きながら言う。
「一坪農園があるから」
「まあ、それは楽しみね。何をつくっているの?」
「胡瓜と茄子、ピーマンにトマト、サラダダイコン」
「サラダダイコン、って小さい奴?」
「そのまま食べられる小さなダイコン」
「いろいろあるのね、楽しみなんだ」
「まあね、することないから」
 彼女の作ったロックを飲む。しばらく飲まないからきつい感じがする。
「ごめんなさい、濃かった?」
「大丈夫、みっちゃん何か飲んだら?」
「いただきまーす」
 彼女もロックで乾杯する。
 ミチコが鰺の骨をとり食べやすいようにする。マニキュアをしていない指が、きれいに骨と肉をすき分ける。こういうこともあったと彼は思い出す。

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 幼い日、彼は大陸から両親に連れられて引き揚げてきた。日本に帰国しても戦後のどさくさで父親には帰るべき家もなく、最後の頼みの親戚にも断られて、仕方なくしばらく橋の下に暮らしたことがある。
 そこは戦災で親を亡くした孤児等がたむろする町で、ある日闇市で父親がようやくのことで手に入れた魚をあぶると、匂いをかぎつけて孤児等が集まってきた。その中に、自分と同じくらいの少女が居て、彼女も母親が私のために骨と肉を取り分けるのをじっと見つめていた。父親は大声で子供らを追い散らしたのだが、その時の恨めしそうな少女の顔を六〇年以上を経た今日まで忘れることが出来ない。母親は間もなく栄養失調と流産が重なり死んだ。しかし、あの時の母親の骨を取り除く白い指先は鮮明に彼のこころのなかに生きているのだ。だから、その行為は彼にとって懐かしく、大切な想い出である。
「畑の他は? 地域の老人クラブとかあるんでしょ」
「一度も出たことないんだ老人会」
「どうして?」
 ビールを一口飲んだ彼女がまた彼の顔を不思議そうに見つめる。
「老人ばかりの集まりなんて嫌じゃないか。病気と墓石の話ばかりで」
「でもそれじゃつまらないでしょ。カラオケ大会とか、ゲートボールとか、小さなハイキングに行くみたいよ。身体を動かすのがいいみたい。まーちゃんもしたらいいのに」
「だから畑している」
「ふーん、御飯にします?」
「うん」
「御飯は玄米よ」
 彼女が御飯をよそいさしだした。
「ありがとう」
「まーちゃん、お風呂の加減みてくるわね」
 彼女が立ちあがった。
 いよいよ風呂か。さて、その方はもう何十年も経験がない。更年期の頃妻に拒否されてからそのままである。ある時酔った振りをして挑んで見たが、妻はがんとして受け入れなかった。
「私達はもう卒業よ」
 彼女はそう言った。
 ミチコの若い身体がすぐそばにある。彼女はもしかしてあの初々しい身体を全裸にして見せてくれるのであろうか。もしそうなら自分にとってこれが極楽でなくてなんであろう。少しばかりの金をちびちび貯金して、挙げ句の果ては使うこともなくそのまま死んでしまうのはつまらない。それなら、ここで極楽を見た方がよほど自分の人生の保養と栄養になる。おそらく自分がこのような若い女性と、出会えることなどもうあり得ない。風呂場から水の音がする。
 それがあるのかないのか、そこまでは深見は言わなかった。ぼかしているが、なにかあることは間違いない。
「薪は煙くてかなわないわ」
 彼女が目をこすりながら風呂場から 戻ってくる。
「風呂を薪で?」
「ええ、そうよ」
 薪の風呂など何十年も入っていない。井戸も薪の風呂も演出だろうが懐かしい。子供の頃、家は小さな農家で風呂は家のそばを流れる小川の水をバケツに汲んで沸かした。水を運ぶのも、粗朶を集めて焚き口で燃やすのも自分の役目だった。火吹き竹で頬をふくらませてぷうぷういぶる粗朶を吹けば、頬の奥の辺りがぴくぴくしみるように痛くなった。
「まあちゃん、そろそろ入ろうか」
 卓袱台の上を片付けながら彼女が言う。
「背中流してあげる」
「うん」
「下着着替えが用意してあるの」
「じゃ」
「まーちゃん熱かったら、言ってね」
「うん」
 彼は脱衣所に入る。狭いがこぎれいな棚には歯ブラシや新しい下着が用意されていた。サッシのガラス戸を開けると、一坪ほどの風呂場があり、それは木の風呂で、換気扇がまわっているが少し煙たいのは薪で湧かしているからだ。一応焚き口と風呂場には仕切があり、煙は入らないようになっている。湯は温めで、簀の子で身体を洗い、中に入る。檜のいい香りがする。
「湯加減はどうかしら?」
「丁度いいよ」
「よかった」
 サッシの向こうで彼女が言う。
「じゃ、ミチコも入ります」
 彼女が風呂場に入ってくる。彼は目を泳がせながらそれでも彼女の姿を横目で見る。彼女はジーパンのままだ。遠い昔、現役の頃酔っぱらって同僚とヘルスという所に行ったことがあるが、そこでは女性は水着だったような気がする。
「まーちゃんていい身体してるのね」
 彼女が背中に湯をかける。ボデイソープをたっぷりまぶして、若い手のひらが背中をぬるぬると泡立てる。それだけでもう快感である。若い女性には皮膚から発散するエキスがあるような気がする。社会経験も豊富な、年に不足もない社会的身分もある大人が、ふらりと女子高校生の「なまあし」の青白い魅力につい手をだして、長年築き上げた一生を棒に振る事件など後を絶たない。女子高校生や若い女性にはそういう雄の本能を揺さぶり、雄を雄たらしめるオーラがある。特に美形であるほど彼女らにはそれが強いと思われるのだ。
 彼の場合、背中を流してもらうという行為も、セックスと同じで遠い昔のことである。
「ねえ、まーちゃんかゆいところは?」
「気持ちがいいよ、みっちゃん」
「遠慮なく言ってね」
 彼女は背中が終わると、首や腕も丁寧に洗ってくれた。
「まーちゃん肩が凝っているでしょう」
「うん」
 彼女は肩を揉み始める。肩胛骨や、特に背骨に沿って叩いてもらうと気持ちが良い。首筋もやさしく揉んでくれる。若い女性に特有のねっとりした指の感触が伝わってくる。思わず手を伸ばしてそこにある胸や太腿に触れたくなる。深見はこういうときどうしているのだろう。ああいう生真面目な男だからこそ、酒が入ると却って大胆になるのではないか。ここも営業でしているわけだから、借りてきた猫のように大人しくしているのではなくて、触れてみてもいいのではないか。
 酔いも手伝い、まず手を後ろに回し、太腿にそっと触れてみる。彼女はそれにかまわず背中をマッサージしている。
「まーちゃん触りたいの?」
 耳元で彼女がささやくように言う。
「うん」
 彼は彼女の方に向き直ると、キスしようとその肩を引き寄せようとした。
「まあ、まーちゃん元気」
 彼女がからからと笑った。
「おいたしちゃだめ、いけない子」
 そう言うと、彼の大切なところを親指と人差し指をまるめて、プチンとはねた。それは彼女の指にはじかれてもからきし元気がなくうつむきうなだれている。
「あらあら、おねむみたい」
 彼女が笑った。
「はいはいわかりました。それじゃ、向こうでお昼寝しましょうね」
 湯加減を確かめて身体に何度もお湯をかけてくれる。それから彼を立たせたまま、清潔なバスタオルで丁寧に全身を拭ってくれた。
 居間に戻ると彼女は蒲団を敷いて、その上に一坪くらいの蚊帳を吊った。
「私も汗を流して来るから、まーちゃんビールでも飲んで休んでいてね」
 彼女は風呂場に消えた。これから何が起こるのだろう。そちらの方の実践は風呂場で証明されたように不戦敗である。それでもなんとかがんばれるであろうか。例えば彼女がもしその美しい全裸の身体を見せてくれたら奇跡が起こるかもしれない。思えば、今日のような機会もなく、老いて身体が壊れるままに脳のほうも壊れて、歓びや楽しいこと、希望や夢という言葉と無縁になり、悲しみと寂寥だけが雪のようにふつふつと降り積もる人生はつまらない。彼女に出会えて幸運だった。
 ならば、後々思い残すことはないように最後の機会に挑戦してみるべきではないか。
 彼はビールを飲もうとして、庭に何かが光るのを見た。植え込みには小さな池があり、どうやら蛍が光っているらしい。人工の電飾の蛍だろうか。のそのそ部屋からはい出るようにして縁先に出てみると、掛樋から水が池に垂れていて、本物の蛍が一匹葉陰で光っていた。
「お待ちどうさま」
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 彼女が浴衣に着替えて入ってきた。
「あれ蛍?」
「そうよ」
 彼女がとなりに座る。
「蛍って光るようになって四、五日くらいの命なんですって」
 彼女が身体を寄せてくる。風呂上がりのいい匂いがする。
「そんなに短いんだ」
「でも光るなんていいですよね。色々な虫がいるけれど、人間楽しませてくれるんだから」
「蛍は仕事してるわけだ」
「そうよ、ちゃんと営業してるのよ」
 彼女が笑う。蛍は必死に光っているように見える。なんだか切なくなった。
「もっと飲む?」
「もういい」
「じゃ、まーちゃん抱っこして」
 二人は蚊帳の中に入った。彼女が胸に顔を寄せてくる。髪のいい匂いがする。
「ねえ、なにかお話しして」
「どんな話?」
「なんでもいい」
「みっちゃんのことが聞きたいな」
「こうしているだけでいいの」
 彼女が抱きついてくる。抱いてやる。確かにこれだけで気持ちも身体も幸せな気分に満ちてくるのがわかる。彼女の身体の中からしみ出すオーラが皮膚を通して彼の血液のなかに流れ込んでくるようだ。芸術家や大富豪と呼ばれる人たちが若い妻をもらったり、若い愛人をもつのがわかるような気がする。
 彼女の手が伸びて、彼の手の指を揉む。一本一本丁寧にもみほぐしてくれる。次に起きあがった彼女は彼の脚を膝に載せて脚の指にかかる。指の先や脚から血行がよくなるのがわかる。すると本当に眠くなる。さらに頭を膝に載せて、耳の掃除を始める。彼女の正座した太腿に載せられた彼の頭は、掃除のために方向を変えるたびに、頬がその柔らかい肌に触れる。こうして若い女性の温もりに触れるのは何十年ぶりである。飲んで遊ぶことはあっても自分は浮気をしたことはない。ケチでくそ真面目でその勇気がなかったからだ。男は真面目でさえあればいいというものでもないのだろう。
 どんな話をさせても話が面白く、話題が豊富でいつも女性達を楽しませる同僚が居た。スポーツが得意で明るい性格だった。自分が仕事で落ち込んでいるときなど、彼が肩を両手でパンと叩いて、
「飲みに行こうよ」
 と明るく誘ってくれると、そのスキンシップで励まされた。自分はスポーツは興味がないしそういう明るさや面白さがない。仕事をしているときは、仕事があるからそれに手一杯で過ごすことができたが、無職になると個性や人柄が前面に出てくるから、話題もなく話もつまらない自分は、ますます妻にとって不愉快な存在となるのだろうと彼は思った。こんな時どうして自分はそんなことを考えるのだろう。ここは彼女の肌の温もりに集中すればいい。なぜってこんな機会はめったにないからだ。
「まーちゃん少し楽になった?」
「ありがとう」
 彼女はまたとなりに横になる。
「ねえ、ミチコぎゅうしてあげましょうか」
 彼女が両手で身体ごと抱きしめてくれる。天国である。気持ちが良い。こうしているだけでもうなにもいらない。言葉もいらない。この先自分を待っているのは、施設に入ること、脳梗塞やら脳出血、心筋梗塞や腎臓病、ありとあらゆる病気、さらにボケもある。糞尿にまみれて、糞の団子作りの日もそう遠くないだろう。ああ、このまま往生できるならここで死んでしまいたい。
 母親の声がした。自分の名前を呼んでいる。
 いつの間にか彼は少年の頃に戻っていた。まだ帰りたくない。遊んでいたい。日が陰り、次第に暗くなっていく。母親の声が遠くなっていく、そして今まで聞こえていた呼び声が聞こえなくなる。自分はどうやら遠くに来てしまったようだ。慌てて、気持ちが混乱した彼は家を目指して夕暮れの道を走る。家の方向がわからなくなり途方に暮れる。バスの停留所があった。時刻表を見るとそれは真っ白だ。もう家に帰れない。彼はそこにしゃがみこむ。
「まーちゃん、お水」
 いつの間にかまどろんでいたらしい。いつもこの夢を見るのは幼い頃の引き揚げの体験らしい。
「まーちゃん、ごめんね、時間になっちゃった」
 そこで彼は着替えを始める。彼女が手伝ってくれる。
「ねえ、まーちゃん、またミチコのところに来てくれる?」
「うん」
「ほんと?」
「うん」
「ありがとう。これ、今日のお手当。よろしくお願いしまーす」
 ミチコが請求書を差し出した。結婚式のお祝いくらいの金額を払う。
「まーちゃん、タクシー呼びましょうか」
「うん」
「ほんとにまた遊びに来てね」
「うん」
 腕をとり、寄り添いながら店の出口まで送ってきた。
「まーちゃん、元気でね。さびしくなったらまた来てね」
 彼女がぎゅうしてくれる。
 外に出る。自動ドアが閉まると、町は梅雨の雨だ。彼女の身体の温もりがしなびた身体の奥に残っている。それを大切に記憶のなかにしまい込む。タクシーが雨の町に動き出す。
 頭を上げると雨粒のかかるウインドーガラスに、妻の顔が浮かんだ。しまった、彼女が家で待ちかまえている。一瞬、錯覚に襲われた。そうか、もう妻は居ない。敵は今ごろ何をしているのであろう。
 町は早じまいしているのか暗く、外灯が雨に濡れている。ミチコの言葉が甘く老いた自分の身体にしみているのがわかる。その温もりが哀しい。ふと妻にガミガミ言われていた頃が懐かしく蘇る。そして猛烈に今一度叱られてみたい不思議な感情がこみ上げた。
 (了)