2008年02月01日
<第18回浦安文学賞奨励賞>
ラビット革命
尾木直子
田中曽女・画
<おぎ・なおこ>=昭和46年2月、京都府生まれ。教員。滋賀県守山市在住。第6、9回フェリシモ文学賞入選。
くらり、と目が回った。
高額時給に惹かれて飛びついた着ぐるみのバイトは、思っていた以上にキツかった。暑い、くさい、息苦しいの3重苦。土日だけとはいえ、よく一か月も続いていると、自分でも感心する。
「それでは、みなさん、さようならぁ」
甲高い司会者の声にあわせて、野外ステージからおりる。そこへ子供たちがなだれこみ、オレを、いや正確には、ピンクのウサギを囲んだ。
さわるだけならいい、握手を求めてくるのもかわいい。でも、そんな子どもばかりじゃない。羽交いじめにする、ツネる、たたく、蹴る。オレは子どもをかき分けて、裏の控え室へ逃げ戻った。プレハブのちゃちな建物。
「お疲れさまっす」
声をかけながら、オレの頭をすっぽりとかくしていたウサギのハリボテをとる。涼しい。まずいはずの人ごみの空気も、ぬるいだけの夏の風も、ハリボテから解放された瞬間は、最高の清涼剤みたいに感じてしまう。
控え室の入り口の横にウサギの頭を置き、その場で着ぐるみの胴体も脱ぎ捨てた。しぼれるほど汗をすったTシャツも一緒にぬいで、ウサギの頭の上にほおり投げる。ウサギの耳が、くしゃ、とつぶれた。
ウサギは、色あせた毛がモケモケになっていて、みすぼらしい。よく見ると、所々に繕ったあともある。しかも臭い。今まで何人の汗を吸ってきたのだろう。そう考えると、吐きそうになる。
「こら、新入り。大事な仕事道具だぞ」
クマの頭を脇にかかえたバイトの先輩、野田さんが、後ろに立っていた。
「すみません」
あわててTシャツを横に置きなおす。
「これが富さんだったら、こってりしぼられてるぞ」
「富さん?」
「お前の前に、そのウサギに入ってた人だよ。バイトの中じゃ、一番の古株だったんだ」
野田さんが、スポーツ飲料のペットボトルをくれた。冷たい液体が、体の隅々までいきわたる。ひからびていた血管が、じわじわとふくれあがっていく感覚。
「ま、口うるさいばっかりで、ぜんぜん踊れない人だったけどな」
「はぁ」
「バイトの平均年齢も若返ったことだし、ここのショーも、もっと派手で、華のあるものにしたらいいのにな。こんな子どもだましみたいな着ぐるみなんてやめてさ」
豪快に笑う野田さんの後を追って、オレも控え室の中へ入っていった。
遊園地の着ぐるみは、ウサギのほかにトラ、クマ、パンダなどがいる。どこかの大きなテーマパークみたいなかっこいい着ぐるみじゃなくて、そのへんのデパートの屋上なんかにいそうな、普通の着ぐるみ。それで、一日五回ショーをする。童謡にあわせて踊るだけ。しかも、超カンタンな振り付けで。合間の時間は、園の中をまわる。一日一万二千円。土日祝日のみ。
なんとなく進学し、なんとなく家を出て、なんとなく暮らしていたら、仕送りが止まった。父親の会社が大変らしい。なんとかなるさと思っていたら、ある日、携帯がかからなくなった。
仕送りが止まるってことは通帳に入金されないってことで、引き落としだけが続いたら残金はなくなっていくわけで、そんな単純な社会のしくみに改めて気がついたオレ、おバカな大学2年生。もうすぐハタチ。
「さ、ぼちぼち閉園だ。行くぞ」
クマのしっぽが揺れた。野田さんは、一度服を脱いだら臭くて着れないから、といって一日クマの着ぐるみを着ている。
閉園時には、ゲートで客を見送る。たたかれ蹴られながらも、あいそよく手をふる地獄の時間。
オレは、新しいTシャツを着て外へ出た。
長い夏の一日も、やっと終わりに近づいて、空は夜の色に支配されようとしていた。
「あれ?」
さっきの場所に、ウサギがなかった。
「オレのウサギ、知らないっすか?」
「入り口の横に置いてただろう?」
「ないんっすよ」
脱いだTシャツだけが、くしゃくしゃのままアスファルトの上に落ちている。オレは、あたりを見渡した。
「あ、あそこ!」
野田さんが指さす。その先の、はるか向こうの柵のところに、くすんだピンクのウサギがいた。
そう、いた、のだ。
ウサギは、柵をこえようと、もがいていた。
「だれだ、オレのウサギを勝手に!」
あわてて柵の方にかけだす。
ウサギは、ちらりとこっちを見て、動きを早めた。両手で、大きな自分の頭を支える。いや、違う。頭を持ちあげ、胴体からはずした。
そしたら。
ウサギの頭の下には、当然見えるはずの人間の頭がなかった。中にはだれも入っていない?
「……うそ」
オレが呆然としている前で、ウサギは、自分の頭を柵の向こうにほおり投げ、体をペチャンコにして、柵の隙間を通り抜けた。それは、とてもすばやい動作だったのかもしれない。でも、オレには、スローモーションを見ているように思えた。
それから、悠然と頭を拾って体にのせ、まっすぐにオレを見た。
―オマエ、キライ。イレテヤラナイ。
ウサギはそう言って、駆け出した。
「ちょ、ちょっと待てよ! 何だよそれ」
わけがわからない!
オレは、柵に走りよった。柵は、二〇㌢ほどの間隔で、とても人間が通り抜けられるような隙間じゃなかった。柵の上には、有刺鉄線がはりめぐらされて、これも越えられない。どういうことだ?
オレは、混乱しながらゲートへと向かった。ウサギが走っていった方向、あの先にはゲートが、そして、駅がある。
とにかく早く捕まえなければ。中にだれかが入っているはずなんだから。このまま着ぐるみを盗まれたら、弁償だったりして。それだけは勘弁してほしい。
ゲートでは、パンダやトラがすでに子供たちに囲まれていた。その横をかき分けるように走る。
「わぁ、ウサギちゃん!」
子どもの声にはじかれるように顔をあげると、ゲートの外にウサギが見えた。のんきに客に手をふっている。うそだろ。
ウサギは、キョロキョロしていた。オレを気にしているのか。オレは、ウサギに気付かれないようにゲートの外に出て、後ろからそっと近づいた。
カップルがウサギに写真に入れと言っている。その後ろに子どもが数人。さらにその親らしき大人が数人見えた。子ども同士で話している子、親にくっついて離れない子、いろいろいる。
写真を撮り終えたウサギは、歩き始めた。そのとき、
「ウサギー、キック!」
男の子が、横からウサギに蹴りを入れた。男の子の足がウサギのお腹にあたったその瞬間、ウサギは音もなく崩れ落ちた。頭のハリボテがアスファルトに転げ落ちたときだけ、ボテンと情けない音がした。あとは、脱ぎ散らかしたような着ぐるみの胴体部分がひろがるだけ。
……ウサギの中には、だれもいない。
楽しげにざわついていた人たちは、凍りついたように動かない。蹴りをいれた少年の泣き声だけが響いた。
オレは、あわてて転げた頭を拾った。
「いやぁ、大成功。新しい手品なんですよー」
自分でもびっくりするようなウソが、ひきつった笑いとともにでてきた。とたんに、空気が戻る。
「なぁんだ」
「びっくりしたー」
客たちは、笑いながら駅へと歩き出した。
オレは、だらしなくひろがった胴体を拾い、人ごみから離れた。バイトを続けるべく、背中のチャックに手をかける。チャックは、さび付いたかのように動かなかった。
「……んだよ」
力を入れても、ビクともしない。
―オマエ、キライ。
また声がした。
「うわ、きしょっ」
着ぐるみから手を離した。
あせたピンクの体は、アスファルトの上に落ちたかと思うと、ムクリと起き上がってきた。そう、立体化したのだ。そして、自分で自分の頭を拾って乗せると、何事もなかったかのように歩き出した。
「どっ、どこ、行くんだよ」
自分でもそんなこと聞いてどうすんだ、と思いながら声をかけた。
![]() |
―ミミ。ボウシ。
「耳? 帽子? 何だよそれ」
ウサギは、それ以上何も言わず、駅に向かって歩いていく。途中、遊園地帰りの客に会うと、立ち止まって愛想よく手をふる。そして、蹴られたりたたかれたりすると、その場で崩れる。そのたびに、オレが「手品でーす」とごまかした。
気がつけば日はすっかり暮れ、遊園地から流れてくる人波はなくなっていた。もうゲートが閉まったのだ。オレは、もうどれくらいこの駅前のベンチに座って、ウサギを見ているのだろう。
人ごみは、子ども連れからカップルへ、よっぱらいの中年へ、そして暗い顔した若者へと層を変えていった。
だらしなく制服を着た高校生が、ウサギを蹴った。もちろん、ウサギは崩れる。
「ちぇっ、またかよ」
オレは、舌打ちしながら立ち上がった。
「手品……」
言うより早く、高校生は崩れたウサギを蹴っていた。オレにも気付かず、崩れたことにも疑問をもたず、何度も何度も蹴り上げる。
ウサギのヨレヨレの耳が、蹴られるたびに弱々しくゆれた。
「おい」
小さく声をかけた。高校生は、やめない。
ウサギの大きな青い目が、泣いているように見えた。
「おい、やめろって」
思わず、高校生の肩に手をかけた。
「んだよ。ウゼェなぁ」
血走った目がオレを見た。
「……オレの仕事道具だから」
「ハン。バッカじゃねぇの」
高校生は、地面に唾をはいて去っていった。
オレは、転がったウサギのそばに、しゃがみこんだ。
「お前、いったいどうしたいんだよ」
汚れた顔を、そっとなでた。
青い目がオレをまっすぐ見ていた。
オレは、ウサギの頭と体を拾い上げた。
遊園地は閉園していて連絡がつかなかったので、仕方なくアパートに持って帰った。明るい部屋で見ると、汚れ方がはんぱじゃなかった。あまりにひどいところは、水で洗ってやった。ウサギは、一度も立体化しなかった。部屋のすみに、そっとたたんで置いた。
冷蔵庫を開け、食べられるものを探す。モヤシと豆腐があったので炒めた。ご飯をチンしようと冷凍庫を開けたとき、気配を感じてふりむいた。ウサギがドアノブを回していた。
「うわっ、なんだよ、お前。びっくりさせんな」
ウサギがチラリとオレを見て、またドアノブを回す。でも、ウサギの丸い指では、うまく回すことができない。鍵をあけることもできない。
「立体になったり、つぶれたり。ほんと勝手なんだから。で、オレはまだ、中に入れてもらえないわけ?」
―オマエ、キライ。
「キライでもなんでも、いいけどね。お前が入れてくれないと、バイトにならないんだよ」
ウサギは、もうオレを見ようともしない。くそ。こうなったら、泣き落としだ。
「実家が超ビンボーでさ、オレもバイト三昧なの。学校終わって、平日の夕方は運送屋。土日は着ぐるみショー、それが終わって、日曜日は夜から居酒屋。もうすぐ後期の学費納入だから、必死なんだ。だから、頼むよ」
そう言いながら、ふと思った。ここまでして、それに見あうだけの何かを、オレは大学で学んでいるのか? なんとなくやめたくないだけ、いや、やめる覚悟がないだけ……。
「なぁ、ウサギ……」
オレは、ウサギの肩に手をのせた。そっと。やさしく。
なのに。
その瞬間、またウサギが崩れた。今まで生きていたものが、一瞬でいなくなってしまうような喪失感。
たたかれるだけじゃなく、蹴られるだけじゃなく、人間に触れられるだけで、崩れてしまうウサギ。
ああ、だから、駅でずっと手を振っていたんだ。握手をしたら、崩れてしまうから。
オレは、床にしゃがんで、転がるウサギの頭をつつく。
「で、お前は遊園地から逃げ出して、どうしたかったワケ?」
ウサギの耳が、ペロンと揺れた。
次の日、朝も早くからオレはウサギと歩いていた。遊園地に向かって。
昨夜、あれからウサギは何度も立体化しては、アパートを抜け出そうとした。だけど、ドアがあけられない。ドアの前でウロウロしては、オレに触れられ抜け殻状態になる……を繰り返した。
いいかげん面倒くさくなったので、オレの体にくくり付けて寝ようかと考えながら、ドアの前をウロウロするウサギに話しかけた。
「どこ行きたいのさ」
ウサギは、オレを無視して、ドアノブを必死で回す。その時、ふっと思った。ウサギは、だれか会いたい人がいるんじゃないかって。だれか。
「……富さん?」
とっさに口からでた。
―トミサン。
ウサギが、振り返った。大きな青い目が、まっすぐにオレを見つめた。
「お前、富さんに会いたいの? そのために逃げ出したの?」
―トミサン。
さっきより激しく、ドアを回す。
「わかったよ。明日なんとかしてやるよ。園に聞いたら、連絡先くらい教えてくれるだろうし」
ウサギは、ゆっくりドアから手を離した。
「だからさ」
すんなりと言葉が出た。
「今夜は泊まれば? 台所でよかったら、寝ていいから」
今、目の前のウサギは意志を持っている。抜け殻の着ぐるみじゃない。どこかに触れて、ペチャンコにして、そのまま朝に遊園地に持っていくこともできた。多分、そのほうが簡単だろう。
だけど。
ウサギは、自分の頭をテーブルの上においた。それから、オレの前で体の立体化をといた。オレは、丁寧にたたんで頭の横に並べてやった。
そして、今、一緒に歩いている。富さんに会うために。
園に問い合わせても、朝が早すぎてだれもでなかった。唯一連絡先を知っていた野田さんに電話をする。野田さんは寝ぼけた声で、それでも富さんの家の電話番号を教えてくれた。
日曜日の朝なのに、富さんは不在だった。家の人が、仕事先を教えてくれた。遊園地の本社ビルだった。本社ビルは、ゲートと駅の中間あたりにある。富さんは、近くにいたのだ。
朝の駅は、ひっそりしていた。昨日ウサギが高校生に蹴られた場所も、オレが座ったベンチも、なんだか昨日とは違う色でそこに存在している。
オレたちは、無言で本社ビルに向かった。ビルの一階は系列の旅行会社が入っている。他の階も、交通関係や流通関係の子会社が入っている。遊園地の総合事務所は、最上階の五階にあった。
ビルの入り口の自動扉は、開いたままになっていた。扉の横に、ちりとりがおいてある。廊下の奥で、だれかがそうじをしていた。
「すみません」
小さく声をかけた。
作業服に身を包んだその人が、ゆっくりと顔をあげた。逆光で顔はよく見えない。
![]() |
―トミサン。
オレの後ろをトボトボ歩いていたウサギが、急にかけだした。その人がゆっくりとふりかえった。
「ウサ公?」
しゃがれた声だった。
「ウサ公?」
もう一度呼ぶ。
ウサギは、その人、富さんと向き合った。
「おお、朝早くからごくろうさん。今日も暑くなりそうだなぁ」
富さんは、ウサギにゆっくりと話しかける。
短く刈った髪は、ほとんどが白い。口元や目元のシワも深く、けっこう年配だとわかる。
この年で、ウサギの着ぐるみバイトをしていたのか? ダンスがワンテンポ遅れる、と野田さんは言っていたけど……。
オレは、ゆっくりと二人に近づいた。富さんがオレに気がついて、不思議な顔をした。
「ん? 君、ウサ公の新しいバイトじゃなかったっけ?」
「はい」
「じゃ、この中はだれが入ってるの?」
「……だれも」
富さんが、マジマジとオレを見て、それからシゲシゲとウサギを見た。
「だれも?」
「はい」
ウサギは、大きな目で富さんを見ている。
「……オレ、ウサギに嫌われて、中に入れてもらえないんです」
朝日が届かない長い廊下の真ん中で、オレは、情けなくうなだれた。
「こいつ、富さんに会いたがってるし、それに、富さんなら、こいつのチャックをあけられるんじゃないかと思って……」
オレは、昨日からの出来事を全部話した。ウサギが柵を通り抜けたこと、ゲートの外で手をふっていたこと、駅にずっといたこと、アパートで外に出たがったこと、人間が触れるとしぼむこと、しばらくすると立体化すること、そして、バイトができずに困っていること。
整理ができないまま話をしたので、ずいぶんと長い時間がかかってしまった。富さんは、笑ったりせず、まっすぐに聞いてくれた。ウサギも何も言わなかった。
富さんは、しばらく何かを考えこみ、それから、オレたちにここで待つように言った。モップをかけながら、入り口へと歩いていく。そのリズムが不ぞろいだった。片足を引きずっているのだ。富さんは、掃除用具を片付けると、オレたちをビルの最上階へとつれていった。
エレベーターを降りると、窓の向こうに遊園地がひろがる。中央に、着ぐるみショーのステージが見えた。
ウサギは、従順にオレたちについてくる。
富さんは、よっこらしょ、とロビーのベンチに腰掛けた。うながされて、オレとウサギも並んですわる。窓越しに、ジェットコースターのゴツゴツした骨組みが見えた。
「ワシはもう、ウサ公の中には入れん」
富さんは、おもむろにズボンのすそをたくし上げた。ひざに、まだ新しい傷跡があった。
「ここを痛めてな。もう前のようには動けん」
と笑った。
「最後の日、ウサ公にも、ちゃんとそう言ったろ」
富さんが、ウサギの頭に触れようとする。オレがあわてて止めると、ああそうだった、とやめた。ウサギは、だまったままうつむいている。
「ここから園がよく見えるだろう」
富さんが、窓の方に顔をむけた。
「はい」
朝とはいえ、夏の日差しに照らされた遊園地は、光と影のコントラストがあざやかでまぶしかった。
「だがな、ワシはここから見る園は嫌いなんだ」
「え?」
「お前さんは、なぜこのバイトを?」
「……時給がよかったから」
「ははは。正直だな。まぁ、バイトなんてそんなもんかな」
オレは、頭をかいた。
「……それと、高校の文化祭でダンスをして、けっこう楽しかったから……」
富さんはそれには答えず、ゆっくりと立ち上がった。足をひきずりながら、窓辺による。
「遊園地というのは、上から見てたっておもしろくないものさ。ゲートをくぐって、同じ目線で、たくさんの人にまじって見てみないと、おもしろさはわからない。君は、ウサギの中から何を見ていた? 何が見えた?」
オレは、言葉につまった。
ウサギのハリボテは大きくて、ちょうどウサギの口のあたりに、中の人間が外を見ることができるように細工がしてあった。見るといっても、せまくて小さな隙間しかないし、向こうから丸見えにならないように薄い布がはってあるしで、ものすごく見にくい。ぶつからないように、自分の目の前をチェックするだけで、精一杯だ。
ウサギの中から見えたもの。
ゴミ箱、看板、ベンチ、テント。そして、人。それから握手を求める手。
「この小さな隙間からでもな、その気になれば、何でも見える」
「何でも?」
「クマの中で、野田くんがへばっとる顔まで見える」
と富さんは笑った。
顔。
そういえば、お客の顔なんてひとりも覚えていない。全員、ぶつからないためによける「人」にすぎない。顔なんて知らない。
握手もですら「手」としていた。その先に続く顔なんて、知らない。
「ウサ公が見たいものと、君が見たいものが同じだと、うまくいくんじゃないかな」
ウサギが見たいもの……。
ゲートに人が集まり始めていた。開門の時間が近い。家族連れ、団体客、カップル、友達。いろんな人がいる。
だけど、ここから見ていても、彼ら一人ひとりがどんな顔をしているのかなんて、わからない。オレが、ウサギの中から見ていた景色と同じ。
「ウサ公よ、この若者にもう一度チャンスをやれよ。ワシが気に入って、採用した青年なんだから、一か月でやめてもらっては、ワシのメンツもたたんしなぁ」
と、富さんが笑った。
「えっ?」
「面接の時、いたんだよ。君の必死さに心をうたれてねぇ。君なら、ウサ公を託せると思ったわけだ」
全然、覚えていなかった。面接の時は、とにかくお金がほしくて仕方がなかった。それだけだった。
「そんな風に言われると、恥ずかしいです」
そう答えるのがやっとだった。
ウサギは、遊園地を見ていた。
ウサギの見たいもの……。
「さぁ、いいだろう」
富さんはそう言って、ウサギをなでた。とたんにウサギが形を崩す。頭が床に落ちる前に、富サンは上手にキャッチした。それから、もう一度頭をなでた。
着ぐるみのチャックは、すんなり開いた。
「あの……、ウサギさん」
ビルからゲートに向かう途中で、呼び止められた。ウサギの中の小さなすき間から、目を凝らしてみると、小さな女の子と、母親が立っていた。女の子は、ウサギの耳がついたかわいい帽子をかぶっている。恥ずかしいのか、母親の後ろに隠れて、上目使いにこっちを見ていた。
「ほら、ちゃんと渡して」
母親が、女の子の腕をひっぱる。女の子はうつむきながら、でも、チラチラとオレを見上げながら、何かを差し出した。
「あげる」
オレに押し付けて、また母親の後ろに隠れる。
くるくる巻いた画用紙に、リボンがかけてあった。ウサギのモコモコの手では、うまく持てない。おっことしそうになるのを、母親が支えてくれた。
「昨日、ステージを見て、どうしてもウサギさんと握手したいって言って。でも、このとおり恥ずかしがり屋で。モジモジしているうちに、ウサギさん、いなくなってしまって。帰りもゲートの外で見かけたのに、またダメで……」
母親は、画用紙のリボンをはずした。
「家に帰って、これを書いて、渡すって。だから、今日また来たんです」
そこには、ウサギとクマとパンダとトラと、それから、耳のついた帽子をかぶった女の子。そのまわりにもたくさんの人が書いてあった。一人ひとり違う顔で笑っている。
オレは、この子を知っている。
帽子の耳がユラユラと揺れていた。何度もステージを見にきていた。かなり前の席にいたのに、さわりにこないなぁと思ったような気がする。
それに、ウサギが逃亡した時、ウサギの向こうで母親にくっついて何か話をしていた。それも、覚えてる。ウサギにさわりたいんだろうな、とチラリと思ったかもしれない。
だけど、それだけだった。暑くて、臭くて、息苦しくて、いや、何より面倒くさくて。
でも、きっとウサギは、そうじゃなかった。
ちゃんとあの子を見てあげたかった。向き合いたかった。握手をしてあげたかった。
―ミミ。ボウシ。
そうだ。ウサギは最初そう言ったんだよ。
オレは、ゆっくり女の子に手を差し出した。女の子は、おずおずと顔をだし、何度も瞬きをして、それから、そっと手を出した。
女の子の手が、ウサギのモコモコの手をにぎった。ウサギも、女の子の手を握った。
にぎやかな音楽が聞こえてきた。ゲートが開く時間だ。開門を待っていた人たちがいっせいに動き出す。
オレはウサギの中から、人の波を見つめた。
(了)


