2007年10月01日
<第18回浦安文学賞奨励賞>
水底の月
富崎喜代美
田中曽女・画
<とみさき・きよみ=昭和39年8月、佐賀県生まれ。主婦。佐賀郡在住。佐賀県文学賞1席、江古田文学賞大賞、てんぷる文芸大賞、地上文学賞大賞>
あわあわとした月明かりのもと、足元に転がる小石を蹴った。小石はあかつき橋の赤い欄干にぶつかり、ぱっくりと黒い口をあけた川の底へと自身の重みで沈んでいった。欄干から身を乗り出し、川面に浮かぶ白い月を見下ろす。細波で歪んだ丸い月は、人の、泣き顔に見えなくもない。湿り気を帯びた、生暖かい風が頬を撫でた。
この川は江戸期に筑後川から垂直に引かれた人工の川で、あたり一帯は船着場として栄え、あかつき橋を渡った川筋には遊女屋が軒を連ねていたのだと、ふとした折に父の口から聞いたことがある。結婚したばかりのころ、この近くのアパートに新居を構えていたらしい。といっても僕が赤ん坊のうちに余所へ越したそうだから、当時の記憶はほとんどない。僕がこの町に新居を決めたのは、父が町の名を聞いたとたん、何か苦いものを噛んだような渋面になったからだった。
川風の湿ったにおいを嗅ぎながらズボンのポケットに両手を突っ込もうとして、パジャマのままだったことに気がついた。せめてタバコを買う小銭くらい持っていればと舌打ちする。といって、手元にライターもなければ、近くにタバコの自販機も見あたらなかったが。
僕は結婚生活に幻滅しているのかもしれない。唐突にそう思う。あまりに期待ばかりが大きく膨らんでいたのが原因の一つだ。早くに母をなくした僕は、家庭というものに絶望しているくせして、同時に強い憧れを抱いていたぶん厄介なのだ。
二歳年下の妻とは、職場の同僚の紹介で知り合った。第一印象はそう悪くなかった。丸い顔の中で特に印象的な長い睫毛に縁取られた黒目勝ちな瞳は、リスやハムスターのような小動物を連想させた。笑うと口元にできる笑窪も愛らしく、小柄な割に胸だけやたら大きかった。ゴム鞠が弾むような元気のよい話し方も好ましく、美点のひとつに数えあげた。出会って半年もせずに結婚を決めた。大学に入ってからこのかた一人暮らしを続けていただけに、早く身を固めたいという意識も働いた。
騙されたとまでは言わない。それでも、結婚してすぐ妻に幻滅したのは事実だ。長い睫毛は付け睫毛、黒目勝ちな瞳は、今流行りの黒いカラーコンタクトレンズの賜物だった。顔を埋めたくなるような豊かな胸は、寄せてあげて駄目押しの分厚いパッドが作り出した幻想だった。妻は息子の陸が生まれたころから身の回りにかまわなくなり、口を曲げ機関銃を撃つような早口で僕の一挙手一投足に不平不満を並べるようになった。
橋を渡ったところに、鉄錆びの浮いた街路灯がひとつきり立っていた。電球がきれかけているのか、不規則な瞬きを繰り返している。どこへ行くという目的もなく、遠くに月を見上げながら、車も人通りも途絶えた深更の赤い橋を渡り始めた。考え事を中断したとたん、耳鳴りが始まった。歩を進めるごとに、すぐそばでたくさんのセミが鳴きだしたような不快な音が強くなっていき、軽い眩暈がして両足がもつれた。すべてが妻のせいだという気がした。
ほんの十分前も、夜泣きを始めた陸を巡って底意地の悪い口論になった。陸は神経過敏な赤ん坊で、毎晩のように夜泣きを重ねた。オムツを換え、母乳を与えても容易に泣きやまない。最初のうちは抱き上げて背中をさすっていれば眠りこんだ。そのうち抱っこして揺すらないと泣きやまないようになった。今では立ち上がって歩き回らないと泣きやまない。やっと寝息を立てはじめたとベビーベッドに寝かせたとたん、再び火がついたように泣き出す。まるでスイッチの壊れたサイレンつきのロボットのようだった。
「いいかげんにしてくれよ。疲れて帰ってきてるんだ」
陸の泣き声を聞くと、つい、そんな突き放した言葉が口をつく。
「わたしだって疲れてるのよ」
夜中、陸は二時間おきに目を覚まし泣き出す。その度にどちらが根負けしてオムツを換えるのか、耳を塞いでの我慢比べが続く。
「勘弁してくれよ。明日も仕事なんだ」
僕は寝返りをうつふりをしながら、妻の踵を蹴った。
「一晩に一回くらいオムツを換えてくれても罰は当たらないんじゃない」
薄い夏布団を頭から被った妻は、身体を丸めたまま身じろぎもしない。
「赤ん坊の世話は母親の役目だろう」
「あなただって父親じゃない」
「だから外で働いて稼いでるんだろう。だいたい、おまえは昼間、いくらでも寝てられるだろうが」
「だったら、こんな、目の下に隈作ってないわよ」
ヒステリックな妻の叫び声が、陸の鳴き声に共鳴した。我慢の限界が切れた僕は薄い夏蒲団を蹴飛ばして、本当は妻を蹴り飛ばしたいくらいの気持ちだったが、そのままの勢いでアパートのドアを開けたのだった。ドアの内側で陸の泣き声がいっそう激しくなったような気がしたが僕は耳を塞いでいた。この年になってまで父に反抗して、嫌がることをわざわざしているから、罰が当たったのかもしれないと唐突に思う。
あかつき橋を渡り終えたとたん、役目を終えたと言わんばかりに瞬きを繰り返していた街路灯が突然消えた。瞬間、あたりが黒い闇に包まれ、視界が失われた。まっすぐ行って信号を二つ超えれば、三叉路の向こう側に建ったばかりの葬祭場に突き当たるはずだった。
闇に目が順応し始めると、僕はほのかな月明かりだけを頼りに右折し、川筋に柳の木が植えられた細い道を東へ向かって覚束ない足取りで歩きだした。目の前に幾重にも薄い紗の幕を張られたように視界が狭い。道路脇に立つ家並みの明かりが右へならえをしたようにどこもかしこも消えていて、何の気配もしないのが奇妙といえば奇妙だった。耳鳴りはひどくなる一方だ。夜は深まるばかりなのに、どうしてもアパートへ戻る気持ちになれなかった。このまま昼間とは異なる、見慣れぬ表情を見せる暗い町並みを夜通し歩き続けてもかまわないとすら思えた。
僕が一晩中戻らなければ、妻も少しは心配するだろうか。酔っ払いに絡まれてケガでもしたんじゃないか。車に撥ねられて病院に運ばれたのではないか。何かの発作を起こし行き倒れているんじゃないか、などと。そんなはずはないか。妻が心配するとしたら、明日、いや、もう日付はかわって今朝になっているのか、僕が欠勤することなく会社に行くかどうかだけなんだ。伝書鳩みたいに狭いアパートと会社を生真面目に往復する。僕は妻子のもとへ給料を運ぶゲッキュウトリなのだから。
道の右手の川縁には柳の木が並んでいるだけで、ガードレールもなかった。水の深さはわからない。泳ぎには子供のころから自信がなかった。水に顔をつけることができないのだ。足を踏み外さぬことだけは意識の隅に置きながら手探りで歩いていくと、ゴムサンダルをはいた爪先を先端の尖った草の葉が刺した。踏みしめると青臭い葉っぱのにおいが足元から立ちのぼり鼻腔を刺激する。目を凝らすと、それまで視界の左側を重く遮っていた家並みが途切れ、膝近くまでえのころ草やかるかやなどの青草が茂った空き地が広がっていた。こんな所に原っぱがあっただろうかと不審ではあったが、川向こうの道路を車で通り過ぎることはあってもこっち側は道路を縁取る遠景でしかなく、どうなっているかなどと気にかけたことは一度もなかった。
僕は両手を広げ、肩を揺すって大きく伸びをした。肩甲骨が軋むような音をたてた。それから首を左右に曲げる。一日のほとんどをパソコンに向かっているせいか、肩凝り、首の凝りは常態になってしまった。三十に手が届きそうな歳になっても依然メガネの度が進むのは、パソコンが原因のひとつなんだろうなと思えた。
小学校の高学年になったあたりで、ファミリーコンピューターが発売された。僕らの間で流行りだしたのは、スーパーマリオが登場してからだ。と言っても、僕自身はファミコンは買ってもらえず、もっぱら友人達の家を渡り歩いた。平日は日が暮れるまで。土日もほとんど友人の家に入り浸った。継母にとってもそれが好都合だったろう。僕は父と継母が新しく作った巣箱からはみだした存在だった。
顧みられことのなくなった革のグローブは、油気を失い硬くなったまま長いこと玄関の靴箱の上に放置されていた。淳君が卒業し中学校で部活を始めると、ソフトボールの練習しようと声を掛ける者もいなくなった。僕らが卒業してから何年もせず、夏休みのソフトボール大会も立ち消えになったようだ。
中学生になってお年玉でファミコンを手に入れ自室に古いテレビを引き込んでからは高校を卒業するくらいまでゲームが作り出す虚構の世界に夢中だったけれど、今、懐かしく思い出すのは決まってソフトボールの練習のほうだった。突き指したり、膝小僧を擦りむいたり、ぼてぼてのゴロでヒットになったり、捕れないと思った外野フライが偶然みたいにすっぽりグローブに収まったり。陽に焼けて色褪せたグローブも、もう家に残ってはいないのだろう。
じっと左の手のひらを見詰める。親指の付け根の下に丸いホクロがある。就職したばかりのころ、印鑑売りの手相見に、こぶしを握ったときに自分でつかめない位置にあるホクロは、手を伸ばしても決して届かない幸せを暗示していると言われた。……ばかばかしい。でも、そのばかばかしい話を、今でも記憶の隅から追いだすことができない。最初から僕は幸せをつかめない星のもとに生まれてきたんじゃないかと。
僕は足元の小石を拾い、川に向かってサイドスローで投じた。小石が水面にぶつかって弾けた音だけがした。といって川面までの正確な距離はつかめない。いつの間にか煩いほどに高まっていた耳鳴りが消えていた。
もう一つ小石を拾おうと屈んだ時だ。背後からかすかな赤ん坊の泣き声が聞こえた。振り返り目を凝らす。赤ん坊の泣き声だけが近づいてくる。もしや、妻だろうかと耳を澄ますが、泣き方の癖が微妙に違う。そのくらいは赤ん坊が苦手な父親でもさすがに区別できた。それに陸は抱っこして歩き回ればたいてい泣きやんだ。歩き回っても泣きやまない赤ん坊を抱いて、親のほうは途方に暮れているだろう。
泣き声のする方向の闇の中に、白い顔が徐々に浮かび上がる。ずいぶんと色の白い人だった。ゆっくりと近づいてきたまだ若そうな母親は幼い赤ん坊をおんぶ紐で背負い、柄を持って振ると音のするオモチャのガラガラを鳴らしながら泣きやまない赤ん坊を必死にあやしていた。後ろでひとつに結んだ髪の後れ毛が、母親の疲れた様子を際立たせていた。何か子守唄のようなものを口ずさんでいるようだが、赤ん坊の泣き声に掻き消されてしまう。
ふと、僕の姿に気づいたのか、母親は足を止めた。パジャマ姿にゴムサンダル履きの僕は不審者に見えただろうか。夕涼みなんて言い訳には時間が遅すぎるし、星の観察なんて柄でもない。といって、とつぜん踵を返して歩き去るのも、何か後ろ暗いところがあるようでかえって変に思われそうだ。僕が迷っている間も、母親の背中にとまった赤ん坊はセミのように泣き続けた。
「あ、あの」
僕達は同時に声を掛け合った。
「あ、お先にどうぞ」
何がお先なのだか、我ながら間が抜けている。
「あ、でも……」
母親は困ったように俯いた。前髪で目元が隠れた。……泣いていたのかもしれない。
「僕、怪しいものじゃありませんから。こんな格好してますけど」
「あ、わたしも」
母親はおんぶ紐が食い込んだ、細い身体に似合わず豊かな胸の膨らみを両手でそっと隠した。パジャマの上らしき紺色の半袖シャツに黒いタイトスカートをはいている。足元はおばあさんが履くような茶色いサンダルだ。それでも僕は前髪で顔の半分が隠れた化粧気のない丸顔が、こぢんまりと整っていることに気がついていた。もっと明るい色の服を身に着け、唇に色をのせるだけでもずいぶん違った印象になるはずだった。
「……家にいても眠れなくて」
僕は仕方なく頭を掻いた。さすがに赤ん坊の声がうるさくて飛び出してきたとは言えなかった。
「すみません。わたし、あの、ここの空き地は家並みが途切れているから、だれにも迷惑かけないかと思って」
「ああ、それもそうですね」
「ほんとにすみません。先客がいらっしゃるとは思ってもみなくて」
赤ん坊を宥めるように、母親はよしよしと調子をつけて背中を揺すった。神経質な泣き声をあげる赤ん坊は、額から頬にかけてびっしり汗疹ができているようだ。シッカロールが、かろうじて額の生え際にこびりついている。泣くから汗疹ができるのか。汗疹があるから痒がって泣くのか。母親に似たのだろう、手も足も華奢なつくりで、指の先まで細いのがなんとなく痛々しい。
「ぼくはかまいませんよ。どうせ、眠れないことにかわりないんですから」
心にもないことを口走る。若い母親が少しばかり美人のようだからといって。
「すみません」
母親は何度も頭を下げた。
「いえ」
ここまで恐縮されると、反対に文句も言えなくなる。かわいげのない妻とは大違いだった。
「疳の虫の薬を飲ませてはいるんですけれど」
「カンノムシ、ですか」
思わず笑ってしまった。疳の虫なんて言葉、いつごろ聞いて以来だろう。
「あの、わたし、何かおかしいこと、言ったでしょうか」
「あ、いえ、よく疳の虫の薬なんて言葉知っていたなと思って」
「そうですか」
「そう言えば、僕も赤ん坊のころ夜泣きが激しくて、疳の虫の薬を飲まされていたようです」
「うちも、母が夜泣きをする子供には飲ませたほうがいいって言うものですから」
「でも、効き目あります?」
さあと、母親は困ったように首をすくめた。この見事な泣きっぷりでは、ほとんど効果はないのだろう。ふいに、この肉付きの悪い赤ん坊は栄養が足りていないのではと思えた。
「もしかして、腹が減ってるんじゃないかな」
「そうかもしれません。ずっと泣きっぱなしで、次のおっぱいの時間がきてしまったのかも」
えのころ草やかるかやが膝くらいまで茂った空き地を一メートルほど分け入った位置に、古い家を解いたと思われる煤けた材木の束が重ねてあった。腰掛けるのにちょうどいいベンチくらいの高さだった。いつもそうしているのか、おんぶ紐を解き赤ん坊を胸に抱きなおした母親は材木の上になにげなく腰掛けた。それから紺色のシャツのボタンを上からみっつ、あけた。想像していた以上に白い胸が惜しげもなくこぼれ出て、僕は咄嗟に目を逸らした。下着は身につけていないらしい。
家々の灯りは消え近くに街路灯もなく、空には淡い月が出ているだけの暗闇の中だから見えていないと安心しきっているのか、母親は無防備に左の乳首を赤ん坊に含ませた。若い女のふくよかな乳房を間近に見ているというのに、心は静かだった。さっきまで泣いていた赤ん坊が、乳房にすいつき勢いよく下顎を動かしだす。
「男の子、ですか」
「はい」
赤ん坊に視線を落としていた母親が僕の存在を思い出したように顔を上げる。
「今、何ヶ月くらい?」
「小さく見えるって言われますが、もう誕生日を迎えました」
「そうですか」
「初めての子だから扱いがよくわからなくて、おろおろするばかりなんです」
母親はようやく困惑するような声になって、右手で左の乳房を覆った。
「うちのはもうじき八ヶ月になります」
そう言ったのは、自分も既婚者であることを、暗に伝えたかったからかもしれない。赤ん坊に母乳を与えている母親の姿など見飽きていると。
「お子さん、いらっしゃるんですか」
「はい。同じくらいかな、と思ったんですが」
「男の子ですか」
「ええ、泣き声がね、ちょっと似てるかなと思ったんですけど」
「もしかして、夜泣きしたり……」
「ええ、まあ。白状すると、息子の泣き声に閉口して家を飛び出してきたわけです」
「そうだったんですか。わたし、そんなこと考えてもみなくて……。本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、いいんです。飛び出してはみたものの、タバコもケイタイも家に置いてきてしまって、でも戻るに戻れないっていうか」
僕は途中から笑いだしてしまった。母親は怪訝そうな顔をしている。
「どうしたんですか」
「いや、なんだかおかしくなって。僕は赤ん坊の泣き声がうるさくて家を飛び出して、そっちは」
「わたしは赤ん坊の声がうるさいからなんとかしろって夫に当たられて、アパートを出てきたんですけど」
「ね、おかしいでしょ。赤ん坊の泣き声から逃げだしたつもりが、結局同じだったんです」
「すみません」
「謝る必要なんてないですよ。僕も息子を連れてくれば良かったかな。……まあ、そんなにいい父親じゃないんですけど」
「わたしだって、ちっともいい母親なんかじゃないです」
「そんなことはないですよ」
「いいえ。いつもどうしていいかわからなくて迷ってばっかり。今日だって、こっちの方が泣きたいくらい」
「でも、ちゃんと世話をされてるじゃないですか。母乳で育てられているみたいだし……あの」
「はい?」
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「僕の母は、まだ赤ん坊だった僕と一緒に死のうとしたらしいんです」
「まあ」
と、息をのんだきり、母親はじっと僕の顔を見た。きっと、どういう具合に反応していいのかわからないのだ。
「らしいって言うのは、人から聞いた話だからで、僕はそのときのことをこれっぽっちも憶えちゃいないんですけどね」
「……その話」
「はい」
「信じてらっしゃるんですか」
「ええ、まあ。遺書なんかは残ってないみたいですが、発作的に死を選んだんじゃないかってことで」
「じゃあ、お母様は」
「その時に……死にました。僕は死に損ないっていうわけです。そんな、幽霊でも見たような目で見ないでください」
「あ、すみません。でも、わたし、なんて言ったらいいのか」
「こっちこそすみません。とつぜん変な話をしてしまって。でも、なぜだかあなたに聞いて欲しいような気がして。変ですよね。会ったばかりなのに」
「でも、何だかちょっとわかります。お母さまの気持ち」
「そうですか」
「ええ。きっと疲れていらっしゃったんだと思います。魔がさすって言うんでしょうか、何もかもが嫌になったのかも」
「それで、子供を道連れにできますか。もし、あなただったら」
母親は赤ん坊の頬をいとおしげに撫でてから、ゆっくり首を横に振った。
「でしょう。でもね、僕はときどき母親と一緒に死んでしまっていたら、と思うことがあるんです」
「そんなこと」
「これまで生きてきて、あんまり幸せだと思ったことってないんですよね。父親が五歳のときに再婚したんですけど、僕は継母との関係がうまく結べなくて。七つ下の妹が生まれてからは露骨に差別されましたし。まあ、しょうがないですよね。僕はかわいげのない子どもだったし、誰だって先妻の子供より自分の子供の方がかわいいに決まってる」
「お父さまはなんて」
「父はね、なんていうのかな。僕が疎ましかったんじゃないかな。僕の顔を見たら死んだ母親のことを思い出しただろうし、何といっても僕の存在が、母が命を絶った原因のひとつだったんだろうし」
「そんなの思い過ごしだと思います。自分の子供がかわいくない親なんて、世の中にひとりもいないと思います」
「あなたはいい人なんだな。実はね、僕は父親になったような実感も薄いんですよ。妻が陸の、ああ息子の名前なんですけどね、陸の父親はあなただっていうから、まあそうなんだろうなと思うし、赤ん坊が生まれるようなことをした覚えもあるわけだし。でも、それだけなんですよね」
僕を責めているような陸の泣き声が今も耳に残っている。
「でも、息子さんの泣き声はわかるんですよね」
「ええ、まあ」
「息子さんが生まれたときはどうでしたか」
「そりゃあ、嬉しかったですよ。まあ、僕なりに」
「息子さんはお父さんとお母さん、どっち似なのかしら」
桜色のマシュマロに目鼻をつけたような陸の顔を思い浮かべてみる。笑窪のできる口元は妻に似ていた。
「目元は僕に似ているって言われます。あと、爪の形なんかも」
母親が口角を上げて微笑んでいた。
「あの、なにか」
「今、とても嬉しそうな顔をされていました」
「そうですか」
からかわれたような気になって、僕は両手を頬に当てて擦った。
「それでいいんじゃないでしょうか」
「はい?」
「今のままでじゅうぶん。女は十ヶ月間、お腹の中で赤ん坊の存在を実感できるけど、男の人にはそれは無理な話ですし。これからゆっくり父親になっていかれたら、それでいいんじゃないでしょうか」
いつの間にか、白い乳房に吸いついていた赤ん坊のすぼめた口が乳首から離れ、かすかな寝息を立てていた。熟れたグミのように尖った乳首が、白い乳房の先に実っていた。
「そろそろ帰ります」
居住まいを正した母親は、寝入った赤ん坊を横抱きにして立ち上がった。右手には丸めたおんぶ紐とガラガラを握っている。
「それじゃあ」
また、と言いかけて口を噤み、片手をあげて母子を見送った。また、逢うこともあるかもしれないし、もう二度と逢うことはないかもしれない。網膜に残った母親の赤い乳首が、しきりに脳を刺激してますます眠れなくなりそうだった。
母親の後ろ姿が暗闇に溶けていった。サンダルを引きずるように歩く疲れた足音とガラガラの鳴る音。ふと規則的に聞こえていたガラガラの音が止み、地面を転がるような音がした。足音が止まったのは、落としたガラガラを拾おうというのか。赤ん坊が目を覚ましたのか、むずかる声が聞こえた。それから母親の悲鳴が上がり、土手を滑り落ちるのと水飛沫が上がる音がほとんど同時に聞こえたのだ。僕は夢中で駆け寄って、悲鳴が聞こえた辺りで柳の枝をつかみ土手を滑り降りた。
目の前には黒い靄がかかり、何も見えなかった。とつぜん、漆黒の闇の中から、白い腕がにゅうっと伸びて赤ん坊を差し出した。赤ん坊は僕ではなく、闇に向かって小さな手を懸命に伸ばしていた。僕はその赤ん坊の左の手のひらの親指の付け根の下に、小さなホクロを確かに見た。手相見が、手を伸ばしても決して届かない幸せを暗示していると明言したホクロだった。赤ん坊の小さな手のひらに触れたとたん、身体中が雷に打たれたようにびりびりと痺れた。僕は赤ん坊の手のひらをしっかり握りながら、意識が遠のくのを感じた。
気がつくと僕は夏とは思えぬ冷たい水の中にいた。夢中で左手を振り回してもがくが、顔の前の水を掻いても、掻いても、水面に浮かび上がることができない。そのうち本当に息が苦しくなってきた。母親はどうしただろう。水底にぼうっと白い月が見えた。僕は赤ん坊の小さな身体を右腕に抱きとめながら、届くはずのない水底の月に向かって左手を思い切り伸ばした。がぼがぼと大量の水が口と言わず目と言わず、身体中の穴を目がけて流れ込んできた。
誰かが僕の身体を揺すっていた。耳の奥のほうで赤ん坊の、泣き声が聞こえた。瞼をあける。懐中電灯の灯りが僕の顔をまともに照らした。
「あなた、こんなところで何してるの」
妻の、声だった。妻の腕の中で陸がぐずって泣いていた。
「えっ」
どこも、濡れていない。頭の芯が鈍く痛んだ。
「おまえこそ、何してるんだ」
「何言ってるの」
「どこだ、ここ」
「どこって、ずいぶん探したんだからね」
やれやれというように妻が肩をすくめた。半身を起こし両手で顔を覆うと、頬に幾筋もの涙の乾いた跡が残っていた。
「どうして、わかったんだ」
「だって、あなた、一緒に部屋を探したとき、言ったじゃない。ぼくはこのあたりで生まれたって。どうせなら、この近くがいいなって。忘れたの」
そんなことを妻と話したことがあっただろうか。妻の持つ懐中電灯の灯りを頼りに立ち上がり、付近を見回す。それにしてもここはどこだ。僕が眠りこけていた植え込みの背後には、白い瀟洒な造りのマンションが建っていた。周りも真新しい建売住宅が並んでいる。えのころ草に覆われた空き地はどこへ行ってしまったのだ。
「なによ、狐につままれたような顔して」
「いや」
僕は妻の腕からぐずぐずの陸を抱き上げた。おっぱいの、むせるような甘いにおいが両腕に広がった。先ほどの母親が負ぶっていた赤ん坊からは、何のにおいもしなかった。母親も赤ん坊も最初から存在しなかったのか。でも、僕はあの赤ん坊がだれだったのか気がついている。
「どうしたの」
妻が怪訝そうな顔で僕を見る。
「いや、何でもない」
「おかしな人」
本当におかしな話だった。妻に話したら笑うだろうか。
「夢を見ていた」
「夢?」
ああ、とても懐かしい人の。 (了)

