2007年08月01日

<第18回浦安文学賞佳作>
置きみやげ
篠宮亜季子

田中曽女・画

<しのみや・あきこ=昭和16年7月、愛媛県生まれ。主婦。練馬区在住>

 美也子は、早めに出勤して会社の近くの喫茶店に入った。ウエイターが大きな声で挨拶するのを見て気持ちが和む。他人の笑顔が嬉しい。バナナトースト、ゆで卵、コーヒーが並び、今日は煎餅二枚がついている。これが美也子の朝食だ。四年間つきあい結婚を約束した男に振られてしまった。それ以来、朝食を作らなくなった。男とはささいなことで喧嘩ばかりしていて、駆け引きのような日々に疲れが溜まっていた。
 窓に気配を感じた。ガラスに斜めの水滴が滑っている。にわか雨だ。フレアースカートの女性がガラスの向こうを駆け抜ける。始業時刻が近い。美也子は立ち上がるとテーブルに残った二枚の煎餅をバッグに入れた。道路を斜めに横切りながら走った。会社の玄関前で肩や腕についた雨のしずくを払う。
 隣の席のデザイナーはもう出勤していた。喫茶店でもらった二枚の煎餅を彼の机に置きながら、おはようと声をかける。彼が振り向いた。
「またですか? お美也さんって寂しい人ですね」
 若い男は、絵筆を陶器の筆洗で洗いながら、それでも笑顔を見せてちょっとだけ頭を下げた。美也子が喫茶店で朝食をすますのを知っている。
「だって、私、お煎餅は嫌いなのよ」
「いや、そういうことじゃなくって」
 デザイナーは、わざとらしく溜め息をつくと、自分の仕事に入っていった。
 コピーライターの美也子がいる制作部は入社してくる人、退職する人と出入りが多い。いつのまにか制作部の中では古株になってしまった。そんな美也子のことを上司は、お美也さんと呼んだ。以来、それが通り名になっている。
 武田は美也子より十歳ほど年上の四十歳の男性で、入社してきてまもなく一年になる。
「お美也さん、聞きたいことがあるんだけど」
 と話しかけ美也子も先輩顔で答える。会話は掛け合い漫才のように弾み、つい仕事の手を休めて話し込んでしまう。文章を書くのが得意で、アルバイトで旅行雑誌に写真入りの紀行文を数か月間連載していた。そちらの方でも忙しそうだった。
 仕事のやり方は、はったりと強引さで反対意見を押さえ、最終的には彼の意見を通す。美也子のコピーを、スポンサーに無理やり認めさせたこともあった。これから営業担当と一緒にプレゼンテーションでスポンサーの所へ行くというので、
「あまり無理押ししないで」
 と言ったにもかかわらず、帰ってきた武田は美也子の顔を見つけると、
「あのコピー、オーケーね」
 親指と人指し指で丸を作った。美也子は笑顔を返しながらも〈営業の方では、先方がコピーに難色を示していると言っていたはずなのに〉と心配になる。
「お美也さん、飲みに行こうよ」
 誘ってくるときは何となく浮かない顔をしている。その予想は大体当たった。営業担当との摩擦の愚痴を聞かされる。バーのカウンターで肩を並べる機会が増えていく。武田には仕事以外にも悩みがあったのだ。
 どんなに飲んでもつぶれないので安心だったが、結婚しているはずなのに家族の話が一度も出ないのが不思議だった。ある時、意地悪な気持ちも手伝って訊ねた。
「武田さん、お子さんは何人?」
 横顔を見ていると、すっかり良い気分になり弛んでいた表情が、一瞬、固まってしまった。飲みかけのグラスの氷を揺すりながら黙り込む。酔いが覚めたのかもしれない。深く息を吸い込みながら背筋を伸ばすと、横目で美也子を睨んだ。
「知りたい? 子供なし。女房が二人」
 最後は吐き捨てるように言った。美也子は聞いたことを後悔した。
「実は、会社にもこの話はしてないんだ。お美也さんならいいか」
「戸籍上の女房は、九州の俺の実家にいるんだ。つまり早い話、浮気をして女と東京に逃げてきたというわけ。会社へ提出した履歴書に書いた妻の欄の名前は、今一緒に住んでいる彼女の名前なんだ。呆れた? いいかげんな男だよね」
 と天井を仰いだ。再びグラスを見つめている。溢れだした言葉が続いた。
「女房はしっかり者なんだ。芯がひんやりと冷たく強情でね。俺みたいにいいかげんな男には何だか鬱陶しい。女って結婚すると変わるねえ。三か月もすると、これは失敗だったとわかった。細やかに気配りするあの優しさはどこへ行ってしまったんだろう。ドテッと落ち着きはらって、昔からいる主のような顔してさ」
 美也子が遠慮がちに口を挟む。
「しっかり者の奥さんなら安心じゃない」
 武田が眉間に皺を寄せたままで美也子を見る。
「俺にとっては居心地のよい家庭ではなかった。次第に家に帰るのが億劫になって、スナックに入り浸りになってしまった。そこで働いていたのが今の彼女なんだ」
 美也子は軽い気持ちで質問したことが、意外な重さで返ってきたことにいささか慌てていた。私生活に立ち入るつもりはなかった。無意識に腕時計を見ている。その様子に気づいたのか、早口になった武田の言葉が再び美也子にかぶさってくる。
「女房に離婚したいと話すと、すぐ俺のおふくろに泣きついた。二人は仲がいいんだ。離婚はしません、させませんだってさ。子供じゃあるまいしねえ。気が変わって帰ってくるのを待っているという。その気は全然ないのに。あれから三年になる。どうしたらいいのかさっぱりわからない」
「ややこしくなっちゃったわね」
 美也子が溜め息をつく。武田が続けた。
「今一緒にいる彼女、桂子っていうんだ。そういう訳で再婚したくても出来ないんだよ。子供だって欲しいけど、このままじゃまずいしね。焦れば焦るほど女房は意固地になる」
「武田さんにも結構悩みがあるんだ。能天気に見えてもね」
 武田はボクシングの構えで美也子を打つ真似をしたあと、
「そういえばお美也さんは雰囲気が桂子に似てるんだよ。今、気がついた。だから一緒にいると気分がいいんだなあ。一緒に飲むと旨い酒になる」
 そう言って手にしたグラス越しに美也子に笑顔を見せた。女房を捨てた男と婚約者に捨てられた女は奇妙に気が合い、つまずいた傷を舐め合うように乾杯を繰り返した。
 武田のことが理解出来ると思うことは、彼に傾斜する気持ちが一歩踏み込んだことになる。そんな気持ちを振り切りたい時は、武田に誘われるともう一人、若い女性のなべちゃんに美也子は声をかける。いつかは、散々、賑やかに盛り上がっていると突如、少し太めのシンデレラのごとく怯えた表情のなべちゃんが時計を見ながら言った。
「わあ、もうこんな時間? お母さんが心配しているわ」
 彼女の家は青梅市にあって中央線立川駅で乗換て三十分近くかかるという。青梅線の終電が無いかもしれない。十二時に近かった。武田がのんびりと言う。
「じゃあ、三人で泊まろう」
「どこで?」
「俺の知っている所があるから」
「お母さんに何て言えばいいの?」
 楽しそうな表情で提案した武田を見ていると〈それもいいかな〉と言う気分になり、美也子が口を出した。

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「私のアパートに泊まるということにしたら? 私が電話口に出て、遅くなったので私の家に泊まってもらいますって言うわよ」
 そういう事になった。彼女は店の電話で、マスターが遠ざかるのを確認して母親と話している。美也子を手招きするので、苦笑している武田の顔を見ながら椅子を立つ。恐縮しきった母親の言葉に後ろめたさを感じながらも、三人揃って店を出た。
 武田の案内した宿は、歌舞伎町のコマ劇場の裏手にあった。一見、料亭風な入口の前に着いた。キョロキョロしていた彼女が、美也子の半コートの袖を掴んだ。御休憩などと書かれた紫色の看板を指さしながら、
「これって連れ込み旅館じゃない! 私こんな所はじめてよ」
 興奮気味で言う。美也子は武田の口ぶりで予想はしていたので、
「こういう所はね、二人で来ると入りにくい所かもしれないけど、三人で来れば健康的なものよ」
 わかったふうなことを言って、彼女の肩を軽く叩いた。
 武田は馴染み客のようで、出てきた女性と親しげに話し二部屋用意するよう頼んでいるらしい。とりあえず案内された部屋に三人分のお茶が並べられた。なべちゃんは何となく非難している目つきで武田を見ている。居心地が悪くなったのか、武田は落ち着かない素振りで腰を上げ、美也子を見やりながら、
「ここは、奥さんと良く来るんだ。うちは安アパートだから、話し声までが隣に筒抜けなんだよ。だから月に何度か、ここに泊まりに来るってわけ。わかった?」
 と言って、今度はふざけた顔でなべちゃんを覗き込む。彼女は変な顔のまま武田を見上げる。美也子は武田と桂子の駆け落ちの経緯を知っているだけに、何やら侘しく酔いも覚めるようだった。おやすみという声を残して武田は部屋を出て行った。
 なべちゃんの興奮はなかなかおさまらず、武田が出ていくと、バネ仕掛けの人形のように勢いよく立ち上がり部屋の点検をして歩く。そして風呂場と寝室の境にある納戸のような造りの木製の引き戸を、スルスルと開けた。はっとしたように彼女の手が止まった。そこは納戸ではなく、素通しのガラス張りになっていたのだ。目の前にホーロー浴槽とタイル貼りの洗い場が冷たそうに見渡せた。つまり寝室で横になったまま、相手の入浴中の姿をガラス越しに見物するというふうに出来ているのだ。我に返ったなべちゃんは振返り、美也子と目が合うと、
「ギャー、悪趣味だわ」
 声を上げた。二人は風呂に入ることもせず言葉少なく、そそくさと派手な布団にもぐり込んだ。彼女は、なかなか寝つけないようだった。眠れないことは美也子も同じで隣の部屋で一人で寝ている武田のことをぼんやり考えていた。
〈桂子と泊まる宿に連れてくるなんて無神経だわ〉ますます、目が冴えてくる。
 翌朝は寝不足気味の二人を引き連れた武田と三人一緒の出社になった。武田のことが少しずつ分かってくるにつれて、頭の片隅にいつも彼がいることに気づいていた。
 男のベテランコピーライターが突然、退職することになった。美也子は聞かされていなかった。どうやら他社からの引き抜きらしいと噂された。彼は穏やかな人でいつもニコニコしていて女子社員に人気があった。コピーはその雰囲気とは違い、ハッとするような斬新さと切れ味の良い感覚に溢れていた。美也子も出来上がったコピーを見せて、ときどきアドバイスしてもらうこともあった。彼が辞めたことで、しわ寄せは美也子にも及んだ。これをいいチャンスだと思い、誰もが認めるようないいコピーを作らなくてはと考える。しかし、失恋以来、無気力になっていて頑張るという気が起きてこない。馴染みのない会社のイメージを膨らませながら、コピーを考えようとするがなかなか集中出来ない。
「あーあ、いい案が浮かばない」
 両手を頭に伸びをする。たまたま隣の席のデザイナーと打ち合わせをしていた武田が、聞きつけて体をこちらに向けて言った。
「疲れているんだよ、頭を休ませた方がいい。たまには脳みそをアルコールで洗ってみたらどう?」
「そうか、それいいかもね」
 暮れ行く街中を武田と肩を並べてゆっくりと歩く。静かなバーのカウンター席。いつもの椅子に座る。何も言わなくても武田には美也子のハードワークがわかっていた。
「一度、頭の中をからっぽにするんだよ。それから考える、ね」
 美也子の顔を覗き込んだ。
<コピーが浮かばないのは、疲れているせいばかりでもないのよ>
 と恨めしい思いはあったが、曖昧に頷くしかなかった。耳を澄ますとシャンソンが流れている。女性歌手が夢を歌っていた。
「お美也さんの夢は?」
 考えたこともない質問だったので、黙って首を振った。
「俺ね、夢というにはちょっと変だけど総会屋をやりたいんだ。お美也さんのお兄さんM重工の総務部にいるって言ったよね。紹介してくれないかなあ」
 歌うような口調で言ったが、美也子に向けた目は鋭かった。
「総会屋って、株主総会に出て、会社をゆすったりするんでしょう?」
 武田は天井を見上げてフフンと笑った。
「冗談じゃないわよ」
「それもそうだな」
 話の端々に得体の知れない感じがするときもある。無遠慮に美也子の顔を覗き込んで、
「まさか、結婚が夢なの。なーんて言わないよな」
 ニヤニヤしている。美也子はグラスに目をもどして言った。
「男が結婚しようって言うと、何だかセックスしたいと言われているようで嫌なの」
「身も蓋もない話だねえ、まだまだ青臭いなあ」
 武田は空になったグラスをマスターの方に掲げる。美也子もキビキビと動くマスターの姿を追う。新しいグラスが来る。疲れているせいか、いつもより酔いが早い。
「私ねセックスが嫌いなんだ」
 断定してしまう。
「ふーん、それで男と別れたんだ」
 勝手に納得している。
「振られたのよ。抱かれることがすごく屈辱的に感じるの。ま、武田さんには分からないでしょうね」
 武田はグラスを手にしたまま正面のボトルの棚に目を這わせている。
「子孫繁栄には協力しないわけだ」
 美也子は吹き出してしまった。
「だいたい結婚っていう形式、おかしいと思わない?」
 頭の奥で小さなモーターが廻っている感じで、拳でトントンと叩く。音は止まない。悪酔いしそうだと思った。口だけは滑らかになる。
「早い者勝ちなのね。後から出会った人の方がお互いに幸せになれるかもしれないのに」
 武田は黙っている。ジンフィズの入ったグラスの外側を水滴が滑り落ちた。グラスを持ち上げると、水滴はカウンターに輪を描いた。美也子は指で輪を広げながら、武田の横顔とグラスを握る長い指先を盗み見ていた。
「理想の恋人は、言葉で繋がって深く理解しあえる人。その人は結婚しててもいいのよ」
 俯いていた武田がひっそりと溜め息をついた。
「甘いんだよ。言葉は魔物だ。たまには真実を告げるけど多くの嘘をつく。言葉を信じたばかりに傷つく。信じちゃダメなんだよ」
 美也子の頭の中ではひときわ大きくモーター音が響く。二人の話が途切れた。武田は空になったグラスをカウンターに置いた。
「お美也さんは珍しく酔ってるよ。疲れてるんだ。帰ろう」
 美也子の体を店の外に押し出して、武田は支払いを済ませている。風が美也子の頬をなぶった。コートの襟を立てる。路地裏に建ち並ぶ店の看板の隙間から凍えた空を見上げていた。破れそうに薄い月が白っぽく透き通っている。店を出てきた武田も空を見ていた。
「夫婦はいつもこうやって同じ方向を向いてなきゃいけないんだよな、きっと」
「そんなこともないんじゃない」
 二人は肩を並べると、駅へ向かう人達の流れに紛れ込んだ。
 武田の仕事ぶりが評価されるようになると、営業担当から企画の依頼が次々と来るようになった。彼は期待に応えようと、夜遅くまで仕事をしているようだった。美也子はこれ以上、武田と親しくしない方がいいと考え、二人だけになる時間を減らそうとしていた。彼の仕事が急増したのは美也子にとっても幸いだった。
 今日も机にかぶさるようにして仕事をしている横顔を見ると、少し疲れているように感じた。彼の椅子の後ろを通る時、
「ねえ、元気?」
 声をかける。
「おっ、もちろん」
 答える言葉とは裏腹に、何となく声に張りが無い。残業を終え、一人で酒を飲むとどんどんピッチが上がり、最近、急に酒量が増えたとぼやいた。
「意外にも、俺、八方美人なのかな。何でもかんでも引き受けてしまって、約束期限までに仕事が上がんないんだよ。断れないんだなあ。ついつい酒に逃げてしまう。全く悪循環だよ」
 昼休みに、混雑する定食屋で揚げ出し豆腐を崩しながら愚痴った。朝から酒の匂いをさせていることが多くなった。美也子は出社すると無意識に武田の姿を探した。遠くからでも顔を見ただけで彼の体調がわかる気がした。最近の彼の顔には疲れが滲んでいた。
 制作部の壁の中央に大きなテレビがある。自分達が作ったCMがどう使われているかをチェックしたり、他社のCMを参考にしたりするため、殆ど一日中テレビはつけっぱなしだ。通りかかった美也子が、テレビの前で足を止めていると、
「お美也さん、ちょっと見てよ」
 かすれた声が呼びかけた。テレビの近くに席がある武田の声だった。美也子が武田の肩越しに机を覗き込むと、書きかけの企画書の上でボールペンを握った右手が震えている。
「何をふざけているのよ」
 相手にすまいと、テレビに目を移そうとしたが、そこにはいつもと違う武田の充血した目があった。
「いや本当なんだよ。最近は酒が切れるとこうなんだ」
 美也子は思わず周りを見回す。二人の話には誰も気づいていないようだった。声をひそめる。
「それじゃまるでアル中じゃないの」
 武田は、がくっと首を落とした。
 制作部の出入口には黒板があって、社員は外出する時、行き先を書くのが習慣になっている。いろいろな字体で乱暴に自分の出先の社名などが書きなぐってある。打ち合わせと書かれ下向きの矢印になっていると、一階の喫茶店にいるという意味だった。
 ある時、武田がコートを持って出掛けようとしているのに気づき、美也子もつられるように立ち上がった。黒板には見向きもしないで、肩でドアを押し廊下へ出る。美也子もさりげなく続いてドアを押す。エレベーターを待っている武田の背中に声をかけた。驚いた顔が振り返り、美也子とわかって泣きそうな苦笑いになる。
「酒が切れるとだめなんだ。仕事にならない」
 顔がむくんでいた。
「一杯、飲んでこようと思って」
 エレベーターのドアが開くと背中から乗り、顔の前に掌かざすようにして、
「すんません」
 ふざけた声で言い残し真昼の銀座へ出ていった。飲みに行くのを止めようと追ってきたつもりだったが、言葉が出てこなかった。精気のない顔からは、絶望感らしきものが美也子にまで伝わり体から力が抜けた。何かが起こりそうな嫌な予感が、胸の中に広がった。
 十二月になって、武田は無断欠勤をしはじめた。彼は壊れかけている、そんな思いで落ち着かない時、制作局長と部長の立ち話を聴いてしまった。
「武田は会社の金を五百万円ほど使い込んだようだ」
 はじめは、ヒソヒソとした噂話の感じだったが、まもなく会社全体に事実として広まった。美也子は、ただ深い溜め息をつくしかなかった。美也子が武田と親しかったとは誰も思っていないようだった。ただ、なべちゃんが一度だけ、
「武田さん、どうしちゃったのかしら」
 上目づかいで美也子に言った。会社は警察には届け出ないものの、支社と連絡を取り探しているようだった。あちこちから聞こえてくる話によると、仮払い伝票を何度も起こしては、経理から現金を受け取り清算せずに自分で使ったらしいという。美也子は経理課のずさんさも責められるべきだと思った。仮払いは交際費として使われることが多い。武田にしても飲食店などの領収書を集めて経理に提出し清算とすればよかったのだ。
 それにしても、その金で美也子の飲み代も払われていたのかもしれないと思うと、気の重さは倍加された。武田はそれほどまでに金を必要としていたのだろうか。五百万円使い込み失踪、という事実と美也子が知っている武田とが結びつかない。現実感がなかった。
 彼の机は、二か月たってもいつものままだった。側を通る人がつまずいて、主のいない椅子がカラリと音をたてて回った。
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 行方不明から三か月の時間が流れた。社内で彼のことが話題になることは全くなくなっていた。美也子も椅子が回る音さえ聞かなければ思い出すことも少なくなった。そんなある日、思いもしない電話が入った。電話の向こうで女性の声が言う。
「有田美也子さんですか?」
 関西系のアクセントで美也子を確認した。警戒しながらもそうだと答える。やや間があって男の声に変わった。
「お美也さんだよね。武田です」
 間違いなく武田だった。美也子の反応を窺っていたのか名乗っただけで黙り込む。
「まあ、どうしたの? 今、どこから?」
 動転しながらも平静を装い、周りに同僚がいるので言葉を選びのんびりした声で言いながら、咄嗟に友人からの電話のような対応をしようと判断した。美也子の様子に安心したのか、武田が話し始めた。
「ごめん、お美也さんに迷惑をかけるから言えないよ。何も知らない方がいいってこともあるんだよ。お世話になったから、一言だけお礼が言いたくて電話をしたんだ」
 武田の声はようやく落ち着いて、いつもの口調になる。一緒に飲みに行った時のことなど懐かしそうに話す。美也子は周りの同僚の様子が気になって、あいづちを打つだけの一方的な会話になった。武田の言葉が途切れると、受話器の向こうから遠く低く音楽が流れてくる。彼が好きなシャンソンだと思われる。喫茶店かもしれない。最初に美也子を呼び出したのは店の女性だろう。武田は関西にいるらしい。東京にはいないのだ思うと寂しくも感じたが、反面、これでいいのだという安堵感もあった。それでも、彼が黙り込むと不安になった。
「ちょっと待ってよ! まだ切らないで」
 受話器の声が少しだけ笑った。
「うん、心配しなくてもいいよ、早まったことはしないから。これ以上、お美也さんに迷惑はかけらんないよ。俺はしぶといんだ。何とか頑張る、大丈夫。……俺ね、何だかお美也さんに惚れちゃったみたい。バカな男だよ。でも、やっぱり言っておきたかったんだ。今日、お美也さんと話せて本当に良かった。声を聴いているだけで気持ちが少し軽くなるみたいだ。ほんとだよ。ありがとう、じゃあ」
 美也子の体は受話器を握りしめたまま、小刻みに震えていた。胸の中は伝えたい思いや聞きたいことでいっぱいだった。しかし、口を開けば嗚咽になりそうで唇を噛んだ。受話器の中で武田の言葉はあっけなく消えた。涙が滑りそうなのをやっと堪えて席を立つと会社を出て行く。ビルの角を右に曲がって昭和通りまで駆けだした。
 歩道のガードレールにもたれ、行き交う車をぼんやりと見ている。涙で滲んだ車が排気ガスの中で、大きくなったり小さくなったり、まるで陽炎のように歪んでは揺れ、光の点になって見えなくなった。ポケットからハンカチを出した。涙が乾くと武田の言葉を思い出してクスッと笑った。〈惚れちゃった〉と口に出してみる。胸の中がほかほかと温かくなった。その言葉は、武田からの嬉しい置きみやげとなった。
「あっ、この言葉をコピーに使ってみよう。古めかしくて、かえって新鮮に感じるかもしれない。食品会社のCMにちょうどいいわ」
 ガードレールから手を離すと、勢いよく両手の埃を払った。春の匂いがする風が美也子の長い髪を乱して行った。
 (了)