2007年06月01日
<第18回浦安文学賞佳作>未来を殺さないで
小川真由子
田中曽女・画
<おがわ・まゆこ=昭和56年12月、北海道紋別市生まれ。看護師。札幌市在住。第18回舟橋聖一顕彰青年文学賞佳作>
その電話は真夜中に鳴り響いた。非常識な時間に起こされた福原真紀は初めて見る番号に一瞬ためらったものの、仕方なく受話器を取った。
「もしもし」
真紀はわざとらしく不機嫌に出てみた。ところが相手はこんな時間にも関わらず、ハッキリとした口調でとんでもないことを話すから、真紀はすぐに目が覚まされたのだった。
電話の相手は病院だった。その病院はかつて真紀が生まれ育った町にある病院の名前であり、用件は真紀の姉についてであった。
「……福原由紀さんの件でお電話させていただきました。実は、昨日入院された由紀さんの容態が急変しまして、懸命に処置を致しましたが残念ながらお亡くなりになられましたので、その御連絡をさせていただきました。これから病院までいらして頂きたいのですが」とまあ、ご丁寧に姉の死を知らせてくれた電話である。
真紀は必要な物を大きめのカバンに放り込むと、とりあえずインスタントコーヒーを啜ることにした。こんな真夜中に車を運転するのだから、もし自分まで何か起こっては冗談じゃない。そんな気分だった。
電話を受けてからおよそ一時間、真紀はアパートを後にした。去年中古で購入した愛車に乗って地元へ帰るのは初めてである。車で三時間ほど走らせなければならないからではない。地元へ帰る理由もなければ、帰りたいとも思わなかった。最後にその町へ行ったのは、真紀の母が亡くなった五年前であり、それからは今やただ一人の肉親である姉とも会ってはいなかった。
「三十四年間の人生か……」
真紀はふと、姉の人生を思った。姉は三十四歳で亡くなったことになる。その年数は一般的には短い部類に入るに違いなかった。しかし姉・由紀にとって三十四年間の人生とは、まさに奇跡である。
福原由紀は生まれつき心臓に欠陥があったため、医師からは二十歳まで生きられないと宣告されていた。両親は当然悲しみに暮れ、その姿は幼かった真紀の脳裏に鮮やかに残るほどだ。物心ついた頃から、真紀はいつも姉の病室に母といた。母が家にいる時間は短く、家にいても病院にいても、常時姉に付ききりであった。時々父と交代していたが、その交代時間に真紀と遊ぶほど母に余裕はなかった。既に頼る親のなかった両親は真紀に悪いと思いつつ、体の弱い姉の事ばかり心配していたのだった。それは真紀にとって幼少期の悲しく寂しい思い出である。家族旅行などできる状態ではなく、どこかへ遊びに行く余裕もなかった。体力的な問題はもちろん、姉の医療費がかさむため、金銭面でも福原家には遊ぶ余裕がなかった。真紀は長期休暇での作文にとても苦労した思い出がある。
一度、母に遊園地に連れて行って欲しいとお願いしたことがあった。両親はいつも我慢している妹を不憫に思ったのか、今度の日曜日は遊園地へ連れて行ってやろうと言ってくれた。そのときの真紀の喜びようはなかった。3日も前から真紀は友達に自慢し、夜も眠れない興奮を覚えた。ところが入院中の由紀も「行きたい」と言い出したのである。真紀はその時から何となく嫌な予感を抱いたが、その時の由紀の体調が良かったこともあり、担当医師が外出の許可を出してくれたのだった。
「良かったね、真紀ちゃん。お姉ちゃんも一緒だよ」担当医師の山崎は笑って言った。
何が良かったものか。日ごろから両親の愛情を独り占めしているのだから、こんな日くらいは一人で寝ていればよいものを……。真紀はその当時、言葉には出せなかったが深層心理ではそう思っていた。
真紀の悪い予感は正しかった。両親は外出してきた由紀を気遣い、あまり興奮させないように配慮した。
「ママ、ジェットコースター乗りたい!」真紀が言えば、「ママ、由紀も乗りたい」と必ず同じように言う。その都度両親は反対し、由紀をなだめるのだった。そのうち「お姉ちゃんが乗れないんだから、真紀も我が侭言うんじゃない」と怒られる。遊具を満喫できない真紀は、仕方なくソフトクリームとラーメンが食べたいと言い出したが、それさえも却下された。
「お姉ちゃんはそういうものを食べられないの。我慢しなさい」と。当然真紀にとっては一つも楽しくない思い出だった。それでも真紀は一生懸命に我慢を続けていたというのに、姉は翌日から体調を崩した。
「遊園地でちょっとはしゃぎすぎたのかな」それが、山崎医師の結論だった。そのおかげで怒られたのは何故か真紀だった。
「だから最初から遊園地なんて連れて行くべきじゃなかったのに……真紀が行きたいなんて言うから」
「真紀はお姉ちゃんの苦しみがわからないのか。自分ばっかりはしゃぎ回って」
泣きながら話す母、怒り口調で話す父の姿……。
この時、真紀はもう二度と家族でどこか行くことはないのだと確信した。そしてそれは正しかった。姉に対して憎しみに近い感情を抱いたのも、その頃からである。それまでは黙って両親に従い、自由にならない姉を不憫に思っていたが、その思いは一つも報われることがなかった。
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「真紀はいいわね。いつかは好きな仕事をして、好きな人と結婚できるんだもの」
年頃になると、姉はいつも妹に対してそんな事を口にするようになった。まだ中学生の真紀には漠然としか想像できなかったが、普通の女性が送る人生を姉が送れないであろう事に対しては哀れみを感じていた。確かに姉はまさに目の上のタンコブ的存在であることに間違いはなかったが、血を分けた姉妹である。いずれ亡くなる姉に対して、少なからず同情していたのだった。
「そう、お姉ちゃんはあと五年もすれば亡くなってしまうんだもの……」
そう思うことで、真紀は姉に対して偽りの優しさで接することができたのだろう。
ところが常に看病を続けていた両親の方が先に参ってしまった。真紀が高校生の頃に父は脳疾患で倒れ、一年の闘病生活の末に亡くなった。姉は既に二十二歳になっていた。
「順番が逆じゃないの」
それが、真紀の率直な感想であった。一家の大黒柱を亡くし、福原家はいよいよ貧困になった。幸い、真紀は卒業を間近に控えていたお陰で学校は辞めずに済んだ。しかし既に進学の決まっていた保育士の専門学校は諦めるしかなかった。
「真紀、あんたも辛いだろうけど、これからもお姉ちゃんのためにこの町で母さんと一緒に暮らしてくれるね」
「冗談じゃないわ」
「え?」
「何で私が役に立たないお姉ちゃんのために人生を棒に振らなきゃならないのよ」
遂に真紀はそれまで思いつめていた物を吐き出した。しばらくは母と怒鳴り合いの口論になったが、それでも真紀は負けなかった。最後には泣き崩れる母を捨て、一人都会へと出てきたのである。
それからの真紀の生活は決して楽ではなかった。時にはプライドを捨てて働かなくては食べていけない時代もあった。生きていくことが辛く、実家へ帰ろうかとも思ったこともある。しかし真紀は負けずに働き、通信教育で念願の保育士の資格まで取得した。今ではその苦労と努力が実り、保育園で働くことができている。
思えば五年前まで、真紀は不幸のドン底だったといえる。姉の事が発端で喧嘩別れした母とは一度も和解できぬまま、母は事故で亡くなった。それも、姉を見舞う道の途中での事故である。
「どこまでも疫病神なのね」事実を知った時、真紀は体が震えた。それなのに姉はそんな事も露知らず「長いことお母さんに連絡もよこさないで。お母さんがどんなに寂しかったと思っているの。かわいそうなお母さん」とのたまうのだから呆れてしまう。しかも姉は二十九歳になっていた。
姉の担当である山崎医師はヤブ医者ではなかろうかと真紀は本気で思った。一体姉のどこを見て二十歳まで生きられないと判断したのだろう。姉以外の人間は次々に不幸な目に遭っているのに、その元凶は今も尚、甘い汁を吸って生きているではないか。心臓が悪いから働けない。そして国からの援助を受け続けている……。真紀はいつか、山崎医師に姉が本当に病気なのか、いつまで生きられるのか……いや、いつ死んでくれるのか問い詰めようと思っていた。しかしそれを出来るはずもなく、真紀はもう二度と姉には関わらないで生きていくことを心に決めたのである。母が亡くなって以来、病院からは姉の入退院の度に連絡が入るが、それも無視した。あまりにしつこいので、とうとう「姉とはもう関係ありません。次に連絡をするのは、死んだ時にしてもらえますか」と告げた。それはあまりに残酷で非常識であることは真紀も理解している。だが、それを告げた後はそれまでの蟠りが一気に溶けていくかのようだった。
「これでもう、二度とお姉ちゃんのせいで不幸になることはないわ」
真紀はその後、結婚を約束する彼も出来た。横井博昭は真紀の一番の理解者であると言える。両親のいないこと、姉によって人生が狂ってしまったことなど、真紀が初めて打ち明けることの出来た相手である。そしてその傷を癒してくれたのは紛れもなく横井であった。
「お金が出来たら、一緒になろうか」
二年前、横井が言ってくれたプロポーズが真紀を幸せへと導いてくれた。それからはひたすら結婚資金を貯め、次の春には目途が立ちそうであった。だが、真紀は縁を切ったとはいえ、いつか姉が自分達に迷惑をかけてくるのではないかと不安であった。
「君とはもう連絡も取ってないんだろう。だったら、別にボクたちには関係ないんじゃないの」
真紀の心配をよそに、横井は特に気にしてはいなかった。
そうだ。それは絶対にありえない。もし姉が何か言ってきたとしても、博昭には絶対に迷惑をかけてはいけないのだ。真紀はそう心に決めていた。
その姉がとうとう死んだのである。
「ようやく私にもツキが廻ってきたんだわ」
そう考えると、真紀は歌い、踊りたくなるほど嬉しかった。本来、人が亡くなれば真紀は常に悲しかった。当然である。なのに、今回ばかりは違う。他人の前ではきっと涙を見せるだろう。そのくらいの演技力は持ち合わせている。だが、心の中では花火を上げて赤飯を炊きたい気分なのだ。
「心置きなく、博昭と一緒になれるわ」
真紀は運転中も博昭との挙式について夢を膨らませた。邪魔者はいない。
久しぶりに訪れた病院は昔とは変わり、綺麗に改装されていた。かつて真紀が一人で遊んだ古くて暗いデイルームの様子もすっかり変わり、明るくなっている。
「変われば変るものね。あの頃私は一人で本を読んでたっけ……」
時間は既に朝になり、デイルームには早起きな年寄り達がテレビを見ていた。
真紀は胸の鼓動を抑えながら、フロントで教えられた姉の病棟へ向かった。
「おはようございます」
「ああ、ご苦労様でした。こちらです。ご案内しますので」
看護師は待っていたように真紀に声をかけた。本来なら死体も病院に置き去りにしてやりたいくらいだが、そうもいかないのだろう。
「由紀さん、頑張られていました。でも、もともと心臓が悪かったのもありまして……」
「そうでしたか」
真紀は悲しそうな顔を作って見せた。もし、この上田と名乗る看護師に「やっと逝ってくれてせいせいしましたよ」と言ったら、どんな顔をするだろうか。そんな顔を見てみたいと思いつつ、黙っていた。
少ししてから担当医師がやって来たのだが、真紀は一瞬戸惑った。
「今回は、運が悪かったです。こちらも懸命に処置を施しましたが、残念ながら……。心臓が普通の人と同じであれば、危機を脱することができたかもしれませんが」
「あの……」
堪らず、真紀は説明する医師に尋ねた。
「あの、山崎先生は転勤でしょうか。担当の先生は変わったんですか」
「え?」
「いえ、これまで長いこと心臓に関しては山崎先生が診てくれていたので」
「ああ、それはそうです。でも……」
説明している医師は、次の瞬間真紀の予想外の事を口にした。
「今回福原さんは心臓で亡くなったわけではありませんので……」
「え」
真紀は思い出した。そういえばここへ入るとき「外科病棟」と書いてあったことを。そして着信は初めて受ける番号であったことも。
「福原さんは昨日、車を運転中に心臓発作を起こしたのでしょう。電柱にぶつかり、そのまま意識不明になりました」
その事実に真紀は実に複雑な思いだった。死因は結局「心臓」とは言い切れない。もし事故でなければ、あの姉は今もまだ図々しく生きているに違いないのだから。だとすれば、姉の生きていた三十四年間自分は一体何のために我慢していたのだろう。姉の最後が事故死だとすれば、姉を取り巻く自分達の不幸はまさに不幸であるとしか言いようがない。
「そうだったんですか」
真紀は必死に堪えた。今更どうしようもないことだ。それに今、姉は確実に亡くなったのだから、これ以上過去を根に持つこと自体忌々しいではないか。
真紀は諸手続きを終えると、その足で自宅へ帰ろうと考えた。どうせ身寄りもないのだ。葬式なども役所に死亡届を提出してあとは簡略化しようと考えた。
「あの」
「何ですか」
上田という看護師が慌てて真紀を呼び止めた。
「あの、この子……」
そう言って連れて来られたのは四~五歳の子供であった。
「誰でしょうか」
「え、亡くなられた由紀さんのお子さんです。まさか、ご存知なかったんですか?」
上田は明らかに驚いた表情を見せた。
「知りませんよ!」
さすがに真紀も大声を上げるしかなかった。
もはや何が何だかわからなかった。真紀は眩暈を起こして倒れそうな衝撃を受けた。一体どうして……それはすぐに信じられる出来事ではなかった。あの成人まで生きられないと宣告されていた姉。遊園地くらいで体調を崩していた姉が、どうして妊娠・出産などできるものか。いや、それ以前に相手は誰なのか……。
「山崎先生に会わせてもらえませんか」
真紀は真相を確かめるべく、山崎医師との面談を待った。その時間は一時間にも満たなかったが、真紀には恐ろしく長い時間であった。そして側にいる子供の顔を見れば見るほど、幼き日の姉に見えてくる。あの、両親の愛情を独り占めした忌まわしい姉の顔に……。
「名前、なんての」
真紀は仕方なく、無愛想に訊いてやった。
「……マユ」
「あんたのお父さんは?」
「……いない」
予想通りの答えである。父親がいれば、こんな所に自分は呼ばれない。この「マユ」という子供も一人で怯えていることはなかった。
長い廊下の端から懐かしい山崎医師が歩いてきたのがわかった。真紀は待ち切れずに駆け寄り、事情を訊いた。
「一体、どういうことです? どうして姉が子供なんて……」
マユを看護師に預けると、山崎医師は淡々と話し始めた。
「今から五年前です。由紀さんはある男性の子供を妊娠されました。複雑な事情もあって、結婚はされなかったようです。もちろん、妊娠・出産は生命の危険を伴うものでしたから、医師の立場としては賛成できるものではありませんでした。そのことはご本人にも説明いたしましたが、由紀さんはどうしても産みたいと仰られました。そして見事、無事出産されたわけです。しかし心臓への負担は一層強まり、以前にも増して頻回に入退院を繰り返されるようにもなりました」
それからどうやって山崎医師と別れたのかは覚えていない。しかし真紀は何度も何度も山崎医師の言葉が頭で繰り返されていた。行きとは違い、車を運転する真紀の気持ちは酷く沈んでいた。姪っ子にあたるマユは叔母が自分を疎んでいることを直感で感じ取っているのか、終始黙っていた。真紀は当然マユをこの車に乗せる気などなかった。しかしあの状況で仮にも姪にあたる子供を置き去りにすることはできなかった。叔母であるからというのではない。真紀はこれでも保育士として毎日保育園で勤務しているのだ。姉に関して言えば冷酷ではあるが、子供たちに対しては深い愛情を持っているつもりである。それは昔、自分が感じていた孤独感を子供たちに味わわせたくないという思いもあった。世の中、愛情いっぱいな親ばかりとは限らない。そんな子供たちを見るたび、真紀は罪のない子供に沢山の愛情を注ぐことにしている。すなわち、今自分の横にちょこんと座り込むマユにも、罪はないのである。
真紀はしばらく考えた。そしてとても一人では抱えきれない問題であることを理解し、とりあえず園長に連絡をしたのだった。それは急な不幸で忌引きをする連絡も兼ねてであったのだが、その判断は間違っていた。
「あなたのただ一人のお姉さんのお子さんでしょ。安易に施設へ送るなんて考えないで欲しいわ。もちろん、保育園としてはその子を受け入れることくらいは可能ですよ」
園長はいつでもそういう人だ。悪い人ではないが、自分の考えは曲げない。幼児虐待問題は明らかに大人に非はあるのだろう。しかし園長は親の気持ちや状況を聞く耳も持たずにただ否定するのである。良く言えば「善」と「悪」をはっきりつける人間であり、悪く言うならば融通の利かない人間であると真紀は認識している。
真紀はマユを車で待たせたまま、横井に電話をかけた。事情を説明すると、横井は予想以上に驚き、狼狽していた。
「冗談じゃない。ボクはそんな他人の子供の面倒まで見る気はないよ。とにかく、早く話をつけてくれ」
予想通りと言えば予想通りの答えであった。横井はこういう類の面倒な話が嫌いであるのだ。もちろん普通の人間なら誰しもそう言えるが、横井の場合はすぐにうろたえ、逃げようとする傾向にあった。日頃は優しい人間であるが、何か困った事があると「ボクは知らないよ」と言って後処理を真紀に任せる事が過去にあった。例えば仕事でミスをし、翌日無断欠勤をした際、横井の上司から確認の電話がかかってきた。その時も「ボクはインフルエンザで声も出ないほど寝込んでるって、そう言ってくれよ」と明らかにバレる嘘を平気でついた。とはいえ横井の仕事は不動産関係であり、ハードであったことを真紀も知っているので「体調を壊して病院へ連れて行きました」と仕方なく応対したことがある。
しかしその時とは違い、この状況は明らかに真紀にとって不利である。マユにとって肉親が真紀だけとなれば、例え引き取らないにしても何かと迷惑がかかることを覚悟しなければならないだろう。尤も、そんな決断を下せば真紀の保育士生命も危険に晒される。間違いなく園長から罵られ、仕舞いには保育園で働くことも出来なくなるだろう。真紀は生まれて初めてという位に大きな選択を強いられた。
姉の死後、三日経った。生活保護受給者の姉に遺産などあるはずもなく、あるのは借金だけだった。それも、まともな金融機関からは借りられる筈が無いので、全て闇金融と呼ばれるものであった。妹とはいえ、真紀がそれらを支払う義務はなかったが、その代わりに弁護士を立てる費用は大きかった。
忌引きを貰っていたものの、真紀は少しも気の休まることがなかった。本来ならば姉の死後、翌日からでも勤務に出ても良かったのに、このままでは明日さえ休まなければならないだろう。
結局横井とも話し合い、最悪の結論が出てしまった。
「ボクは君の姪っ子の面倒まで見る余裕はない。君が引き取っても引き取らなくても、ボク達には何らかの影響があるじゃないか」
「そんなこと……。だからって、どうしたらいいのよ」
「だから、ボクはこれ以上君とは付き合えないんだよ。もう、別れて欲しい」
「嘘でしょう。だって……私、何も悪くないじゃない!」
「君が悪くなくっても、君はそのお姉さんの妹じゃないか」
「姉は死んだわ」
「だから、君にもお姉さんの血が流れてるって言ってるの! 今まで、君は不幸な事ばっかりだったじゃないか。非科学的ではあるけどさ、ボクまで不幸にはなりたくないんだよ」
真紀は、全身の力が抜けていくのがよく分かった。
「それって……私にも姉と同じように、不幸になる要因があるってこと?」
「率直に言えばね。ボクのお母さんも嫌だって言ってるんだもん!」
「それが別れる原因?」
「泣くなよ、ボクだって辛いんだ。……それじゃ、元気でいてくれよ」
真紀はもはや泣き崩れて声にならなかったが、去って行く横井に叫びたかった。
「博昭のマザコン野郎! くたばっちまえ」と。
横井と最悪な決別を迎えた後、とにかく真紀は姉を恨んだ。
「両親を殺しておきながら、それだけでは飽き足らず妹の幸せまで壊しておいて……。その上、自分は一人前に子供まで産み落として。死んでくれたまでは良かったものの、どうして子供を残していくのよ。挙句、姉と同じような顔をした子供を妹に押し付けて……。一体、どこまで私を不幸に追い込めば気が済むの! この子供はまるで第二の姉じゃない……!」
バサバサの長い髪を振り乱し、ブツブツと呟く真紀の姿は、まだ幼いマユにはまるで山姥のように恐ろしく見えたに違いない。黙ったまま、しかしマユはその姿があまりに怖く、とうとう失禁してしまった。
一瞬、真紀はガタガタと体全体を震わせたと思うと、すごい速さで側にあったコップをマユに向けて投げつけた。それは、マユの頬スレスレで壁に当たり「バリンッ」という音と共に破片が床に散らばった。
それからどれほど時間が経過したのかは自覚がなかった。真紀もマユも身動き一つ取らずに佇んでいた。しかし時間が経つにつれ、真紀は徐々に冷静さを取り戻すことができた。
もし、これが……。この子供が他人の子供であったら、手を上げたとしても許されるのであろうか。いや、許されないにしても言い訳の余地はあるかもしれない。しかし実の子供や肉親である子供に対して同じことをすれば世間はどう見るか。いっそ他人の子供の方が気楽かもしれない……。真紀は当ての無い怒りを燃焼できずにいた。
「オシッコで、パンツもスカートも汚れちゃったじゃないの。早く風呂に行きなさいよ」
真紀はやっとの思いでマユに声をかけ、服を脱がせた。
「あ……」
真紀は裸のマユの姿を見てある事実を確信したのだった。そこには明らかに単なる怪我では出来るはずのない傷が背中や腹、尻に刻まれていたのだった。
「あんた、これ! ……お母さんにやられたの?」
マユは黙っていた。何度真紀が訊こうとも、決して「母にされた」とは答えなかった。
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子供は決して母親を「悪い」とは言わない。何故なら、殴られるのは自分が悪い事をしたと思い込んでいるのだ。子供は親に、とりわけ母親に深い愛情を抱いているのだから……。
真紀は思った。
マユに出会ってからつい先ほどまで、マユは第二の姉・由紀であると思った。しかしそれは違う。マユは第二の真紀なのではないか。
かつて、両親に愛情を十分に注いでもらうことができず、哀しい思いをしていた幼少期の真紀の目と、マユの目は同じである。違う事と言えば、マユは心だけではなく、体にも傷を付けられていたことであろうか。
真紀は呪った。
姉の存在のせいで、これまで自分達親子は様々な苦労や不幸を背負わされ、またしてもその姉のせいで自分が不幸になろうとしていることを。もはや、これは因縁なのであると。その因縁のせいでこれからも自分は不幸な運命を脱することが出来ないのではないかと。
真紀が荒れている時もただジッと見ているだけの哀しい目をした幼女の体は細かった。同じくらいの年の園児と比べ、どれほど栄養と愛情が足りないかを真紀は感じていた。
「マユ、あんたも一緒ね」
真紀はフッと涙腺が緩んだ。考えてみれば、これは本当に因縁なのかもしれなかった。これまで真紀は自分が不幸の被害者であると確信していたが、両親もマユも、そして姉の由紀でさえ、不幸な被害者であるのかもしれなかった。姉は結局マユの父親と結婚できない関係であったという。それは何故か。体のせいかもしれないが、どちらにせよ心に深い傷を負ったことだろう。
「冗談じゃないわ」
真紀はある決断を下した。
これからも姉の事が原因で不幸になると落胆していたのは確かである。しかしそれは違う。横井との破談も姉やマユのせいではないことに、真紀は薄々感づいていた。横井は自分と別れるきっかけを探していたに過ぎなかったのだろう。マユがいれば真紀の結婚に問題が生じるのは否めない。だが、これ以上第二の自分を作ってはならないのだ。このままでは因縁に呪われるだけだ。幸せは、自分の手で作り、掴む物。もう姉の人生に踊らされることは無い。すなわち、もう二度と不幸の原因を姉のせいにはしないと、真紀は決めたのだった。
真紀が一つの大きな決断をしてから、一ヶ月が過ぎた。仕事と育児はまた違い、時折マユの世話では梃子摺ることもある。正直言えば、真紀は良い子育てが自分に出来る自信は持っていない。ましてや良い母親役になれるとも思わない。しかし、この現状を変えていくのは自分とマユなのである。
「よし」
よく晴れた日曜日、洗濯物を干し終えた真紀はとりあえずマユの手を引き、公園へと連れて行くのだった。
(了)
