2007年05月01日
<第18回浦安文学賞受賞作>
ほくほく
実川れお
円谷圭佑・画
<じつかわ・れお=本名・新妻玲央(にいつま・れお)。昭和63年1月、福島県いわき市生まれ。國學院大文学部日本文学科在学中。町田市在住>
年の瀬も押し迫った頃、高校の帰りに祖母の家に寄った。
今年七十三になった祖母が、珍しく風邪をこじらせて、あたしはそのお見舞いにやってきたのだ。保母の仕事が忙しい母に代わって、洗濯物を取り込んだり、食事の後片付けをしたりするくらいなら、あたしにだってできるだろうと思った。
祖母は、あたしが通う高校のある町に住んでいる。四年前に祖父が亡くなってからは、こうして三駅先に住んでいるあたしの家族が彼女のことを気にかけて、何かあるごとに手を差し伸べてきた。
「よく来てくれたな。でも、もう治っちゃったんだよね」
しかし、当の祖母はあたしの予想に反して、すこぶる健康だった。咳き込みながら布団に横たわっているわけでも、肩を震わせながら厚着をしているわけでもなかった。オレンジ色の長袖トレーナーの袖と黒いハーフパンツの裾から、象のように太い腕と脚を見せて、茶の間のテーブルに肘をつき、堂々と煙草をふかしていた。
「大丈夫なの、本当はまだ具合悪いんじゃないの?」
「悪かったら、煙草なんか吸えるかぁ? わざわざ来ることなんかねぇのによ」
祖母はおもしろくなさそうである。元気ならばそれに越したことはないというのに、あたしは自分の善意を優先するあまり、彼女を病人に仕立て上げるモードになっていた。
「何か手伝うことってないの?」
「夜はラーメンでもとろうかと思ってるし、洗濯物も溜まってないからねえ」
「ほかのことだっていいんだよ。風邪引いて怠けたことって何かないの?」
「怠けたことって、おまえねぇ」
「なんだっていいんだよ。これから面倒に思うようなことでも、なんでも」
あたしはなんだか、意味もなく向きになっていた。
祖母はしばらく考え込んでいたが、やっぱりないよと言って、なげやりに謝った。そして、おまえ、せっかく来たんだから、そのへんでのんびりしていなよ、と、あたしの善意を、いとも簡単に追い払ってしまった。
祖母とは、なんの約束もしてはいなかったはずなのに、あたしは約束をすっぽかされたような気分だった。頼ってもらえないと役に立たない、戦隊もののヒーローみたいにがっかりしていた。
とりあえず制服を脱いで、用意してきた私服に着替えた。普段なら絶対に着ないような、フード付きのださいねずみ色パーカーに、色が落ちてくたびれたユニクロのジーンズ。汚れてもいいようにと、準備してきたそれらを身につけると、なんとも言えぬ虚しさに、全身を包み込まれたような気がした。
それでも祖母は、あたしのことなどどうでもいいような顔をしてテレビを見始めていた。孫のあたしに面倒をかけたくないという気持はわかるけれど、ありがとうなんて言ってくれなくていいから、せめて少しくらい、肩揉んで、とか、足揉んでとか言ってくれたっていい。祖母には昔から無神経なところがあった。あたしはそのことですっかり落ち込んでしまい、むくれながら溜息をつき、その場をいつまでも離れられずにいた。
その様子をちらと見た祖母は、急に何か思い当たったようにそれまで吸っていた煙草を灰皿に寝かせると、
「そんなに何かしたいのなら、庭行ってごらんよ。あいつがいるだろ。奴の手伝いしてやりなよ」
と、言った。
「えぇー?」
随分と長い時間、待機していたわりには、あたしはその突然の依頼に、たいして乗り気ではなかった。
「なんだよ、つれないねぇ。嫌なら帰んなよ」
祖母に睨まれて、ぎょっとしたあたしは「はい、いってきます」と機敏に答えて、持参してきたエプロンを前にかけ、しぶしぶ玄関に向かい、靴を履いた。
祖母の言うあいつとは、彼女の長男、あたしの母の兄、つまり伯父のことである。脱サラした三年前から、焼き芋の移動販売をしている。母は、そんなヤクザな商売は家の恥さらしだと言って取り合わないのだが、当の本人はそんなことはどこ吹く風で、真面目にせっせと芋売りの仕事に精を出している。祖母は、ずっと離れて暮らしてきた息子が、親元に戻ってきてくれたことがただ嬉しいようで、彼の仕事を未だ熱心に奨励し続けている。
伯父の手伝いをするのは、これで三度目だ。直接的な商売の手伝いはしたことはないものの、芋を運んで仕分けたり、軽トラの洗車をしたりしたことはあった。
伯父は、家の脇にある、小さなログハウスのような作業小屋のなかにいた。ちょうど、芋の入ったダンボール箱を、表に運び出すところだった。
この作業小屋、昔は糠の臭いがしていたのだが、今は埃っぽくて息苦しい臭いが漂っている。ここに来ると土の中に生き埋めになったような気がして、あたしはあまりいけ好かなかった。
「手伝うよ!」
後ろから突然声をかけたら伯父は驚くかな、と思ったのだが、少しも驚かなかった。振り向きもせずに「なんだ来たのか」としらけた声で言った。あたしは、こういう男はつまらないと思う。男だったら、背に波立たせて振り向いてくれるくらいが、ちょうどいい。
「これ、運ぶの?」
「それは運ばなくていいよ。重いから腰痛めるぞ。あっちに並んでるダンボールの芋を仕分けてくれないか」
芋の肌に直接触れると、手がまけて痒くなってしまうので、小屋に吊るされていた軍手をはめた。伯父に指示された通り、コンクリートの庭の上に、ダンボールの箱をいくつも並べ、そのなかから使えそうな芋と、そうでないものをせっせと仕分けた。見分け方は至って単純で、カビの生えた腐ったものが使えないということだ。伯父はそれを「おくされ様」と呼んだ。腐っても鯛のように、腐っても芋は芋、芋屋が芋を邪険に扱った時点で、その商売をする資格はなくなるのだ。
ある程度、見分けのつく範囲で芋を仕分けてから、改めて伯父に確認してもらった。正解率、八十パーセントというところだろうか。どうだ、すごいだろと伯父に目利き立てしても、彼はむすっとした表情で、普通できるだろ、両目があればよ、と言った。
伯父は、既に点火して温めてあった、軽トラの荷台に積んである大きな釜の蓋を、両の手を使い、丁寧に開いた。釜のなかには、川原にあるような小石がぎっしりと敷き詰められており、その上に焼肉で使うような、黒ずんだ金網が一枚だけ張ってあった。その網の上に、先ほど仕分けた芋たちを、太い順に釜の真ん中から順々に並べていき、うまい具合に整列させた。
「ケーコ、小屋の脇から乾いた薪を持ってきてくれないか」
「いいけど、どのくらい?」
「そこの猫に乗せられるだけ持ってきてくれよ」
あたしは「はあい」と、幼い子供がするような軽い返事をして、逆立ちをしている泥だらけの猫の柄をぐいとつかみ、軽々と手前に引き寄せると、一輪をころころ転がしながら、一日中日当たりのよい、小屋のわきへと向かった。
見た感じ、乾いていそうな、肌のすべすべした薪を選んで、ところどころ穴のあいた古びた猫にそれを積み込んだ。錆びた猫は、薪を積み込む度に、雨水がバケツの底を打つような音を立てて、そのたびに、あたしをぞくぞくさせた。
釜の脇のスペースに、五段くらいの薪の山を作り、二リットルのペットボトル三本に防火用水を入れたら、準備完了である。
ああ、これで間接的にではあるが、祖母のお手伝いになった。やれやれだと思い、軽く右手で腰を叩きながら家に向かおうとしたところ、車のエンジンをかけた伯父に引き止められた。
「おまえ、今日これから暇か?」
「暇だけど」
「じゃあ、芋売り付き合えよ。バイト代出すからよ」
伯父はそう言うと、祖母と同じ銘柄の煙草に火をつけた。
「嫌だよ、恰好悪い」
「ただ横に座ってりゃいいんだよ。夜道で暗いし、顔も見えないからさ」
「どうしようかなぁ」
あたしは迷っていた。バイト代が出るというのだから、決して悪い話なわけではない。どうせ今日は暇なんだから。しかし、この伯父の仕事を自ら引き受けたりしたら、遠まわしに母を裏切ることになってしまうような気がしてならなかったのだ。
「どうすんだよ」
「いや、あたしとしては乗っても構わないんだけどね」
「それじゃあ、乗ったが勝ちだよ。乗れよ」
「うーん、じゃあ了解。でも、お母さんには内緒だからね」
「わーってるよ」
結局、あたしは引き受けることにした。母にばれなければいい話だと思った。
一度家のなかに入り、帰り支度を済ませた。帰りは、伯父が駅まで送ってくれるという。
制服をたたみ、鞄につめた。それを肩に下げ、祖母に「行って来るね」と、挨拶をした。
祖母は嬉しそうに、無理せず頑張ってきなさいと、あたしの肩を叩いた。彼女のお見舞いに来たはずが、どういうわけか、あたしのほうが励まされてしまった。
玄関を出ると、木枯らしが庭に吹き寄せてきて、微かに甘い、芋のにおいがした。
ダイハツハイゼット。いやらしい目つきで、鼻の下を伸ばしたような顔をしている。それは、なぜかあたしに馬面を連想させた。
ドアを開けると、作業小屋と同じ埃の臭いがした。シートには、通販で買うような花柄の布団にも似た柄の座布団が敷かれ、それはどうやら夫婦布団のようで、運転席が青、助手席が赤だった。これって、トイレの標識と同じだなと思いながら座り込んだ。薄っぺらの軽トラの座面に、直で触れているのに比べたら、少しはましなものだと思った。
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座布団は夫婦仕様だけれど、伯父は独身だ。工業系の高校を出たあとから、ずっと電機メーカーの会社で働いていた。若い頃から、好条件の縁談もいくつかあったというのに、彼はそれを断り続けてきたという。仕事人間。母はそう言って、親のことをろくすっぽ心配せずに、独身でいる彼のことを許してきたのだが、彼が脱サラした時点で、そんな気休めもなくなってしまった。
コースは既に決まっていた。海岸沿いの船方屋敷と住宅団地。
あたし達の乗った芋車は、日の暮れかかった港町を猛スピードで駆け抜けた。猛スピードと言っても、時速五十キロにも満たないくらいだけれど、ボディの小さな軽トラに乗っていると、それだけでも充分速く感じられた。
突き出した海岸に沿ってゆるいカーブが描かれていて、あたし達はその上を、柔らかな筆先のようになって滑っていった。小さな子供が駆け足で家のなかに入っていく姿を横目にしながら、我が芋車はガソリンスタンドと造船所、それに小さな雑貨店と釣具屋しかない商店街に入った。
そしてそれから、家と家のあいだの、大人四人がやっと並べるくらいの幅しかない路地に車が入ったので、あたしは思わずわなわなした。
「こんな細い道に入って、戻ってこられるの?」
「この最奥にUターンできる広場があるから大丈夫だよ」
伯父は、どの路地もくまなくチェックしているようだった。
「よくもまあ、そんなことまで知っているのね」
「こいつができあがるまで、市内のどこへでも行ったからなあ」
こいつというのは軽トラのことで、芋車に御色直しするまで、三ヶ月とちょっとかかった。伯父ははじめの二ヶ月で焼き芋屋をやる決心と、その他諸々の手続きを済ませていた。もちろん、引越しも退職も。
「こういう仕事するのに、恐れってなかったの?」
事業失敗とか多額の借金とか思い余っての一家心中とか。あたしはさりげなく訊いてみた。
「そんなもんあったら、脱サラなんかしてないよ」
伯父はぴしゃりと言った。少しは心配しようよ、自分のこと以上に、祖母のこととか、母のこととかさ、と思ったけれど、言うとキレそうだったから、そっとしておくことにした。
細い路地はゆるい坂道になり、おおよそ三百メートルくらい登ったところで、伯父は突然ヘッドライトを消した。顔に光を当てられるのを恐れて、外に出て来られない女性客に対する配慮である。
「ケーコ、そこにあるテープ、セットしてくれ」
「これのこと?」
ブレーキレバーのわきに立てられた一本のテープを手に取った。
「そう、その売り歌テープ」
カセットデッキを扱うのなんか、本当に久しぶりのことだ。テープの背を押してデッキの口に入れてやると、「がしゃん」と叫ばれるのも、なんだか懐かしい。
数秒の間があって、頭上の大型スピーカーから大音量の「んぃーしぃやーきいもー、やーきいもー、やーきたてー」が流れ出した。あたしはこの売り歌を聞くと「焼きたて」の歌詞が「やったでー」に聞こえて、いつも可笑しく思う。下手な関西弁に聞こえるところが良いのだと思う。
速度を上げて走っているときには、さして気にならなかったのだけれど、のろい運転になった途端に強烈な寒気を感じ、鳥肌が立った。
「なんで窓を開けておくのよ」
伯父はそ知らぬ顔して暖房入れるか、と言ってつまみを回した。
「あんたあたしを殺す気か。暖房くらい入れとけよ」
すると、伯父はいかにも面倒くさそうに、
「理由があるんだよ」と言い放った。
「理由?」
「そう、窓が開いていないと客の声が聞こえてこないだろう。せっかく焼き芋屋さんって呼んでくださっているのに、スルーしたら最悪だろうが」
なるほど、と思うけれど、あたしの足元はすっかり冷え切って指先の感覚がなくなり始めていた。ジーンズだったのが唯一の救いだけれど、せめてブランケットを持ってくるべきだった。
「もう少し行ったら休憩入れるから。釜の様子見なきゃならんからな」
しかし、伯父がそう言った直後に、薄暗いブロック塀の陰から、子連れの女性が現れて、車は停まることになった。伯父はサイドブレーキを引くと、ドアを開けすぐさま飛び出していった。
「こんばんはー」
伯父の威勢の良い挨拶が背中に響いて、あたしはサイドミラーで客の表情をさりげなくうかがうことにした。エプロン姿の母親のほうは、三十代半ばくらいで、どう見ても主婦。子供は男の子で、小学校にあがったばかりと言った感じだ。母親は息子の頭を押さえつけて、無理やりに「こんばんは」を言わせている。躾にしても、音声抜きで考えてみれば、何かの謝罪場面のように見えて、自然と笑えてくる。
伯父は豆電球を点け、軍手をし、釜の蓋を開けると、手前に設けられたポケットに手頃な芋を数本並べた。
「うちは量り売りですから」
茶封筒と同じ質と匂いの紙袋を手に取りながら、伯父がそう言うと、客は即座に、
「おいくらくらいになりますか」
と、まるで値札のないブランド品でも購うかのように、心細い様子で訊ねた。
「百グラム百円で、一本五百円が相場ですね」
「そうですか」
「うちのは、芋が違うからね。太さが他と違うでしょ。お客さんの好きなものを選んでいいよ。秤でちゃんと確認するからさ」
客が値段のことで一先ず安堵したのを確認すると、伯父は唐突に親しげな口調になった。客はと言うと、こちらも急に柔らかな言葉を使い出し、顔に紅葉を散らしながら、これだという芋を指差した。
「いちばん太いのだ」
すると、それまで黙っていた息子がすかさず母親の選り抜きに突っ込みを入れた。
「お母さんは太いのが好きだからねえ」
伯父がそう言って笑うと、母親は伯父の肩を叩いて「もういやだぁ」と言いながら顔を再び赤らめた。息子のほうはすっかり、わけがわからないといった感じの顔になってしまい、母親のエプロンの裾を引っ張っては、どうしたの、と訊ねていたのだが、いつの間にか、湯気をあげる釜の火を眺めだしていた。
秤の笊に芋が乗せられて、商いはいよいよ大詰めとなる。客としては芋の太さ云々よりも、そっちのほうが眼目なのである。
「ほぼ五百円だけど四百円に負けるよ」
伯父がそう言うと、母親は顔を綻ばせて、いそいそと財布の口を開いた。
しかし、そこで伯父が何気なく、
「でも、あれだな。ボクは釜のなか見たくないか?」
と、車の周りをうろうろしていた息子のほうに訊ねた。先程から釜の湯気に興味津々の息子は、果たして頷いた。
早速伯父が抱きかかえて、釜のなかを覗かせてやると息子は「俺、これがいい」と、頼みもしないのにお気に入りの芋を一本選んだ。母親の行動に習ったのだろう。
「そう言っているけどお母さん、これは考え物だな」
母親は仕方なさそうに、じゃあそれも下さいなと、人差し指でその芋を指した。
「そう来なくっちゃ。毎度あり!」
茶色い紙袋の側面に芋の汗染みができて、そこから蒸気のような湯気があがった。伯父の手から、客の腕のなかへと渡った紙袋は、まるで生まれたての子供を包み込んだ大きなバスタオルのように、幸福な暖かさを目一杯くるみ込んでいた。
その親子が、そそくさと塀の陰に消えていくのを確認してから、伯父は再び車を出した。
坂道ではそれから、お勝手を飛び出してきた老女三人と、仕事帰りの若い男性が二人、幸せそうな顔をして、芋を持ち帰っていった。
伯父が芋を売っている最中に、あたしはその時々の客が、各々の部屋に芋を持ち帰ったあとのことを想像していた。炬燵に入って家族みんなで皮を剥くのだろうか、それとも、恋人同士寒い部屋の隅っこで縮こまりながら、かじかむ指を温め温め、もくもくと食べるのだろうか。
いずれの想像にしても、幸せが満ち溢れていることには変わりなかった。少なくとも、芋を食べているそのあいだは、誰もがほくほくとした顔で、その嬉しさを隠しきれずにいることだろう。人々はきっと、芋のあの、柔らかくほぐれ崩れる感触を、存分に味わいながら、冬の厳しい寒さを、ほんの一瞬だけでも、忘れていることができるのであろう。
そうして、冬にしか生まれぬ暖かさを、そのとき確かに思い出すことができるのだろう。
それは、なんて素敵なことだろう。それは、なんて豊かなことだろう。
しかし、そのような芋を売ることができる伯父は今、幸せなのだろうか。人さまに幸せを売っている伯父が、幸せを知っているかどうかさえ、姪のあたしには、まるでわからなかった。
道の突き当たりで、Uターンした車は、今来た道をもう一度じっくりとなぞりながら坂の入り口に辿り着くと、そこでカセットを取り出して、速度をあげた。
次なる目的地である住宅団地を目指す車のなかで、あたしは以前から伯父に訊きたかったことを訊ねるタイミングを見つけた。カセットを出しているあいだだけ聞こえてくるラジオ番組のなかで、その番組のDJが、自分の子供の将来について語りだしたのだ。
「ねえ、どうして芋売りなんか始めたの?」
「は?」
「だってちゃんとした会社にいたんでしょ? もったいないじゃない」
伯父は赤信号で車を止まらせると、ハンドルの上に、髭が生えた下顎を乗っけて言った。
「ビビっときたんだよね。四年前、社員旅行で茨城に行ったときにさ。サツマイモの畑を見学していて、ただわけもなく、俺はこれを売りたい、売ることで何かが変わるんだって思っちゃったんだよね」
「何かが変わるって、具体的に何が?」
「なんて言えばいいのかよくわからないんだけど、大袈裟に言えば人生が。そのときに、生まれ変われたような気がしたんだよ」
伯父は八重歯を出して、にっと笑った。
大きな団地のなかでは、子供のお客さんが多かった。塾や部活あがりの子供、夜更かしする予定の子供、夕食だけでは飽き足らぬ子供。どんな子供も、暗がりのなかでは、少しだけくたびれて見えた。
そんな子供たちとは、対照的に明るく元気に見えたのが、夜のウォーキングを楽しむおばさん集団だった。彼女達が芋を頬張ると、実にうまそうに見えるのが不思議だった。きっと彼女達は、健康的なウォーキングをいつまで続けようとも、死ぬまで痩せることができないのだろう。
広い団地の、どれも同じように見える通りをすべてまわり終えて、やっとこさ起点の坂道まで辿り着いた。しかし、伯父はそこを通り越して、住宅地としてはまだ拓かれていない林を突き抜けた先にある土地へと向かった。
丘の上に築かれた新興住宅街、その端の端に、山を切り開いたばかりの、まっさらでちょっぴり不気味な新地が広がっていた。あちこちに首をおろしたショベルカーが止まっていて、そのどれもが眠っているキリンのような影を、静かに作っていた。
その広大な新地の中心に、数件の建売住宅が寄り添うようにして建っていて、その家のうち、もっとも庭の広い、茶色い屋根の家に、車は近づいていった。
「見ろよ、この家。庭がいいだろう? なんにもなくてさ。こんな庭だったら、芋車入れても、薪を積んでも余裕だと思うんだよね」
その家は、土色の庭が確かに広かったけれど、ベンチのあるバス停が近くにあって、ゆるやかなスロープが玄関の前についていた。
あたしはそれを見た途端に、その家の玄関に立っている祖母の姿を思い浮かべた。伯父の大袈裟に言った人生の変化とやらが、今、目の前に現れているような気がしてならなかった。そして、あたしは、そこを訪ねている母と自分の姿を思い浮かべているうちに、不思議と泣けてきてしまった。
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「なんだ、どうしたよ、おい」
伯父は、急に鼻を啜り始めたあたしに気づくと、焦りながらこちらを向いて、唇を震わせた。
「うるさいなあ、釜の煙が目のなかに入ったんだよ」
その言葉にあっけにとられたかのように、伯父はだらしなく口を開け、目を丸くした。
「本当は眠くなったんじゃねぇの? おまえもまだまだケツが青いんだなぁ」
「アホか。こんな車で寝たら凍死するわ! いいから早く出せよ」
伯父はにやにやしながら、口笛を吹いて、ゆっくりとアクセルを踏み出した。その様子は、何もかも見透かしているようでもあったし、何もかもわからないようでもあった。
あたしたちが乗った芋車は、のろのろと長い坂道を下り、繁華街の灯りのなかへ、ゆっくりと溶けていった。
街のネオンの電源であるスナックが、多く軒を連ねている繁華街の通りには、何十にも及ぶタクシーや代行が、こぞって縦列駐車をしていた。
伯父がたまに飲みに来るという、スナックの前で車をつけると、早速、水商売風の派手な装いをした女性が、数人集まってきた。彼女たちにとって芋の用途は様々で、お客さんのお土産にするという若いホステスもいれば、若いホステスの賄いにするというママもいた。
このあたりで、芋の商売をするためには、《その道》の人に許しを得なければならないらしいのだが、伯父の場合は、知り合いの的屋を通じて知り合った、ここらを取り仕切る親分に、新潟から取り寄せた四十五度の焼酎を渡せば、うまくショバを貸してもらえるというのである。
伯父は淡々とそのようなことを語ったのだが、あたしにはそんな利害関係はちんぷんかんぷんで、だからと言って、深く訊ねる必要などまるで感じてはいなかった。
街が、どれほど明るく熱いネオンを灯していようとも、冬は、そんなことはお構いなしに、そこに生きるすべての生き物を、あっという間に捕らえてしまう。
店のドアを開け、代行が待つ通りに出てきた上機嫌の客たちは、歩道を吹き抜ける風に打たれると、皆一様に肩を震わせて、トレンチコートの襟を立てた。
伯父は、そのような客達の興味をひくために、鼻水一つ垂らさずに、愛想笑いをしながら、車の外に立ち、威勢のよい声を張り上げている。時折、あたしが窓を開け「代わろうか」と訊ねると、「おまえの親に殺される」と言って、彼はそれを拒んだ。
繁華街に停車して三十分が経ったとき、芋はまだだいぶ余っていたのだが、客足が途絶えた隙に伯父は車を出して、あたしに「ご苦労さん」と言った。一人なら、もうしばらく粘るところだが、今日はあたしを乗せているので、終バスの時刻を気にしてくれたようである。
「駅前のローソンで下ろすぞ。東スポ買って俺もそのまま帰るから」
伯父が眠そうに言った。
「ありがとう。でも、ごめん。次の信号のところで下ろしてもらえる? そこからのほうが、バス停に近いんだ」
伯父は素っ頓狂な顔をして、ああ、とだけ言うと、早速歩道に乗り上げて停車した。すると、彼は自分のウエストポーチから千円札を五枚取り出して、「今日のおまえの取り分」と言って、それをこちらに差し出してきた。あたしはその五枚をありがたく受け取った。
「気をつけて帰れよ。それとこれ」
そう言って伯父が今度は自分のポケットから、皺くちゃの二千円札を取り出した。
「それで親父とお袋に、肉まんとおでん買って行ってやれ」
そのとき、伯父の顔は、真上にある信号機に照らされて真っ赤になっていたのだけれど、あたしには、それが、けしてそのためだけではないような気がしていた。
「わかった。ありがとう。そっちこそ気をつけて。それと、おばあちゃんによろしく」
伯父が頷いたのを確認してから、車を下りてドアを閉めた。伯父だけになった芋車は、短いクラクションを鳴らし、急発進した。
外の空気は車内のものよりもずっと縮こまっていて、肌に冷たく貼りついてくるかのようだった。白い息が、黒い空に舞い上がっていくように見えた。もうすっかり、冬の澄んだ空気である。
煙臭い風が、髪と髪の合間をすり抜けていった。釜の赤い火は、駅前通りの七色のネオンに溶けていき、あたしはそれを見送ってから、駆け足でバス停を目指した。
バスに乗っているあいだ、知らぬ間に転寝をしてしまい、下りるはずの停留所を、あやうく乗り過ごすところだった。夢のない眠りだった。家に帰り、本格的に眠るときには、素敵な夢が見られたらいいと思った。
伯父に言われたように、家の近くのコンビニで、肉まん二つとおでんを適当に選んで買った。
店を出るときに、入り口のわきにある東スポがふと目に入り、わきばらのあたりが小さく震えるのがわかった。今しがた、売れ残った焼き芋を積んだ伯父がこれを買い、家路に着いたことを思うと、なんとなく、くすぐったかった。
(了)


