2007年02月01日

<第17回浦安文学賞奨励賞>
インジェラ
宮坂朝子
  田中曽女・画
(みやさか・ともこ=昭和30年7月、東京都目黒区生まれ。独協大法学部卒。主婦。長野県松本市在住)

 ……ポーン、ピンポーン。
 半覚醒した身体(からだ)の中を鋭い音が過(よ)ぎる。夢の中のひどく現実的(リアル)な感覚。一瞬、現実に振れた意識はすぐに鉛のように重い体によって地の底へ引き戻されていく。
(誰も訪ねて来る筈がないじゃないか)
 浩之は再び微睡(まどろみ)の中に身を委ねようとした。
 ピンポーン、ピンポーン。チャイムがまたけたたましく鳴る。狭い家中に響き渡る大音響に、今度ははっきりと意識が戻ってきた。
「やれやれ、セールスかな?」
 浩之は黄ばんだ万年床の上にまだ眠っている上半身を大儀そうに起こした。
 ピンポーン、ピンポーン!
 寝起きのぼんやりした頭を耳を劈(つんざ)くような音が容赦なく責め立てる。
「はい、はい。ちょっと待って下さいよぉ」
 口の中でブツブツ呟きながらクシャクシャに丸まったシーツの中から這い出すと玄関に向かった。
 一昨日(おととい)、買い物から帰って以来閉め切っていたドアは、八月だというのにヒンヤリとカビの臭いの中で凍えていた。鍵を外して力まかせにノブを押すと、錆びついた蝶番がキイィーと悲鳴のような音をたてた。
「おじいちゃん!」
 開きかけたドアの隙間から目映い夏の陽射しが差し込むより速く、元気な声が飛びこんできた。
「まあーだ寝てたの? もうお昼だよ」
 ポカンと立ちつくす浩之の視界に女の子の笑顔が弾け飛んだ。髪を肩まで伸ばした中学生くらいの少女。健康そうに小麦色に日焼けした顔の中で真っ白い歯がピカピカと笑っている。長い睫毛で縁取られた黒目がちの大きな眼の底で、嬉しそうな光がキラキラ揺れた。まるで世の中の総てが善意に満ちていると信じきっているような笑顔だった。
「あんた……誰だ」
「やぁだ、分からないの?」
「……」
「あなたの孫ですよ! いつも写真、送っているでしょ?」
「まご?」
「やっぱり手紙も写真も見てないのね。お母さんが心配していた通りだわ」
「まご?」
 浩之は茫然と突っ立ったまま、その言葉の意味が分からないかのように繰り返した。
「そう、孫の浩美。あなたの娘の舞(まい)の子供よ」
 少女は一歩踏み出すと浩之の手を握った。同時に頬にフワリと温かい唇が触れた。
「ずっと、ずっと……逢いたかったわ、おじいちゃん」
 浩之は目眩を感じながら少女を見詰めた。
 ボワッと涙が浮かんできた浩美の黒い瞳に、幼い頃の舞の姿が重なった。

「汚ったなーい! このお風呂場、タイルもバスタブも真っ黒け」
 風呂場から浩美の大きな声が響いてくる。
「いくら年寄りの一人暮らしだからって、カビとお友達にならなくたっていいんじゃない?」
(まるで台風に襲われたみたいだ)
 浩之は柄付きのタワシを握ったまま思う。
「おじいちゃーん、ちゃんと磨いてよ! 十五年分。そのトイレ、あたしだって使うんだから」
「ハイ、ハーイ」
 浩之は頭を振り振り力まかせに黄ばんだ便器をこする。白かった筈の陶器は元の色が分からない程変色していて、少しこすったくらいではとても汚れが落ちない。そういえば掃除なんて本当に十五年ぶりかもしれない。一人娘の舞が出て行ってから、時間が止まったままだったから。ぼんやりと手を止める浩之の目の前を舞と迎える筈だった幸せな未来を置き去りにしてきたあの日の光景が過ぎっていく。溢れる涙を拭おうともせずにしゃくりあげながら玄関で靴を履いていた舞の背中が。「出て行け!」と怒鳴りつける狂鬼のごとくの己の姿が。その日から浩之の時間は一ミリたりとも前へは進んでいない。
「おじいちゃーん、聞こえてるの?」
 浩美の大声で現実に引き戻された。
「はーい、聞こえてるよ」
「トイレの掃除が終わったら台所の流しの中のお皿、洗ってね。あたしは洗面所きれいにするから」
「やれやれ……」
「何か言ったー? それからその垢まみれのシャツ、脱いでよ。洗濯するんだから」
 先程からもう小一時間もこの有様だ。突然、訪れてきた始めて見る孫娘は「上がれ」とも言わないのにズカズカと家の中に入り込んでくると、素っ頓狂な声をあげた。
「すっごーい。これって、家というよりゴミ捨て場だわ」
 それから荷物を置くなり浩之にあれこれ指示しながら大車輪で掃除を始めたのだった。「今日中に何とか人間が住めるようにしなくっちゃ」とか言いながら。
 驚きや苛立ちよりも戸惑いの方が大きかった。浩之は、今、自分の身に起きている出来事がよく理解できないまま、浩美の手足のごとく(それにしてはひどく要領が悪く、鈍かったが)働かされていた。
「舞の娘か。もう十四歳になっていたか……」
 何度も何度も、惚けたように呟きながら。

 一人娘の舞は十五年前に家から出ていった。
 浩之が五十三歳の冬のことだ。
 浩之の妻は難産が祟り、舞を産んで間もなく亡くなった。母のない子を不憫だと思ったこともあったのだろう。そしてまた自身の寂しさも……。あるいはまた、舞の中に亡き妻の面影を求めたのかもしれない。ともかく浩之は舞を溺愛して育てた。この娘(こ)のためなら命さえ惜しくもないというほどに。こんこんと湧き出て尽きることを知らない泉のように、溢れ出る愛情を注いでも与えても、なおも胸一杯に埋め尽くせない舞への思いを、時として浩之はヒリつくような痛みさえ感じながら持て余すこともあった。
(今日も学校から無事に帰って来られるだろうか? 交通事故に遭いやしないか? 学校で母親がいないからと苛められることはないだろうか?)
 浩之は仕事の手を止め舞のことを考える。考え始めると、ますます不安が増してくる。愛情という温かい思いが心配という冷たい感情に姿を変えて、グルグル、グルグルと浩之の周りを廻りながらゆっくりと身体を締め付けてくるような気がした。愛しさが増すほどに心配の種も尽きなかった。いつでもどんな時でも脳裏から舞の存在が離れることはなかった。この娘(こ)にはただ幸福に生きて欲しいと祈りながら、願いながら、夢中で舞を育ててきた。
 愛しい舞と二人の蜜月のような時間がゆっくりと流れていった。愛に満ちた時の流れはずっとむこうの未来まで途切れることなく続いているのだと信じていた。それが十五年前のあの日、突然その流れは断ち切られてしまったのだ。
 あの二月の凍りつくような寒い朝、二十二歳の誕生日を迎えたばかりの舞が言った。
「妊娠した」と。
「妊娠?」
 浩之は、一瞬、その言葉の意味が理解できずに問い返した。
「ええ、お父さん、子供が出来たの」
 舞は少し言い淀みながらそれでもしっかりとした口調で言った。
「子供だって? そんな……。そんなバカな」
「本当よ。もう四ヶ月なの」
「……誰の子だ?」
「エチオピア人。同じ大学に来ている留学生なの」
「何だって?」
「私達、結婚したいの。一度、会ってください」
「ダメだ!」
「お願いよ。彼、家が貧しかったけど国費留学で日本に来て、修士(マスター)を取ったの。とても真面目で優しい人よ」
「真面目な人間がお前に子供をつくるというのか?」
「愛し合っているのよ、私たち」
「ふざけるな! 学生の分際で!」
 浩之はこれまで舞に対して一度もあげたことのない大きな声を張り上げた。頭の中を怒りと哀しみと愛情がグチャグチャになって渦巻いていた。舞の表情が哀しげに歪んだことは覚えている。そして自分が次に何を言ったかも。
「そんな得体の知れない外国人の子供なんか、早く堕ろしてしまえ!」
 後はもう地獄のようだった。悲痛な顔で懇願する舞。
 絶対に結婚を許さないとわめく浩之。
 涙を浮かべた舞の大きな黒い瞳。
 そして、浩之が再びあの呪わしい「堕ろせ」という言葉を口にした時、ついに耐え切れなくなった舞は、悲鳴のような声をあげて泣き崩れた。
 床に突っ伏して泣きじゃくるその舞の背中に、なおも浩之は凶器のような言葉を投げ続けたのだ。「結婚も子供を産むことも許さん」「言うことを聞けないなら出て行け」と。

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 あの時、浩之は舞に裏切られたと思ったのだ。自分の総てを注いで育ててきた舞に。可愛く、愛しいふんわりと柔らかな毛糸球のようだった舞。さくらんぼのようなホッペを指先でツンツンと突くと、くすぐったいとキャアキャア笑った。その宝物のように愛しんできた舞が自分に背を向けて外国人の男の元に走っていくなんて、とうてい浩之には受け入れることができなかった。しかも結婚してエチオピアに行きたいという舞の言葉は、「父(あなた)を捨てる」という意味にしか心に届いてはこなかった。
 後に浩之は気づくことになる。けれどもあの頃、舞を愛するあまり、舞の人格を自分の中に吸収してしまっていることに気づかなかった。愛情と独占欲の区別がついていないなどと、考えたこともなかった。
 そして舞の心に思いを寄せることもなく、浩之は深く深くただ自分だけが傷ついたのだった。
 浩之の時間は、あの日あの場所で凍りついてしまった。舞と迎える筈だった幸福な未来も共に暮らした楽しい思い出も浩之の視界からは消えてしまった。
 舞のことを考える時はいつも、哀しみに歪んだあの泣きはらした顔が目の前に立ちはだかるように浮かんでくるだけだった。

 夕方近くまで掃除してようやく浩美の言うところの「どうにか人間が住める状態」になった。
 やれやれ、と居間の椅子に腰掛けた途端、浩之は急に空腹を覚えた。こんなに体を動かしたことも腹がすいたと感じることも、随分と久しぶりのような気がした。
「お腹、すかないか?」
「うん、ぺっこぺこ」
「じゃ、何かとるか?」
「あたし、作ってあげる。料理、上手いのよ」
「作るって、何を?」
「エチオピア料理」
 目の前でニコニコ笑っている孫娘を前にして、突然、浩之は当惑する。
 そう言えば、まだ何一つこの孫娘(こ)に聞いていないことに気づく。エチオピアから一人でやって来たのだろうか。お母さんは今どこで何をしているのか。今までの暮らしぶりや、どうして突然この家に来る気になったのか。そして……、あんなひどい仕打ちをした自分のこ
とを、舞たち夫婦や浩美は恨んではいないのだろうか。
 けれどもその疑問を口に出すと夢が覚めて、目の前の孫娘が消えてなくなりそうな気がした。浩之は頭の中に溢れそうになる何百という質問の代わりに、たった一言ぶっきらぼうにこう聞いた。
「お母さんは元気か?」

「おじいちゃーん、出来たわよー」
 浩美に呼ばれてキッチンに入っていくとテーブルの上一杯に、見たこともない料理が並べられていた。
 薄く焼いた灰色のベロベロのパンみたいなものの上に赤や黄色のドロッとしたものが乗っている。しかもそのパンの大きさが半端ではない。直径五〇センチはありそうだ。その横の器には、やはり灰色っぽいドロッとした大きなダンゴのようなものが入っている。一体どんな味がするのやら見当もつかない。
「これがエチオピア料理なのか?」
「うん、もっとも一般的な料理よ。あたし、おじいちゃんに食べさせたくて、エチオピアから香辛料や粉を持ってきたの」
 浩美はテーブルについた浩之に料理の説明を始める。
「この灰色のクレープみたいなのがインジェラ。『テフ』っていう粟みたいな穀物で焼いたパンなの。それからこの上に乗せてあるのがワットっていう煮込みよ」
 浩美は一枚のインジェラの上に色とりどりに並べられた赤や黄色の煮込みを一つ一つ指差す。
「これがジャガイモ、こっちは豆。香草(ハーブ)、あと生の玉葱やトマト、これは全部、野菜のワット煮込みなの。そしてもう一枚のインジェラの上にかかっている赤いのが肉のワット煮込み、牛肉のトマト煮込みよ。バルバリっていう香辛料が入っているから赤いの」
 浩之は何だかワクワクしてきた。見知らぬ料理を食べる嬉しさよりも、会話のある孫との食卓に。
「そしてこっちの器に入っているのがシュロワット、挽き豆の煮込み。あたしのシュロワット、おいしんだから」
 浩美は今作ったばかりの料理を前にして、得意そうに眉をそびやかす。その仕種は驚くほどこの孫娘(こ)の母親に似ている。
 浩之は、一瞬、舞と向かい合っているような錯覚に捕らわれ慌てて首を振った。急に胸を締め付けるような痛みが襲ってきた。鼻の奥がツンと痺れる。少しでも油断すると涙がこぼれ落ちそうな気がした。
「こうやってね、食べるのよ」
 浩美はインジェラを手で引きちぎると、器用にワットを包んで口の中に放り込む。
「うーん、いい出来。おじいちゃんも食べてみて」
 浩之もマネをして恐る恐る口に入れてみた。
「うわ、辛い!」
 浩之が辛さのあまり思わずムセかえったのを見て、浩美が笑う。
「ゴメン、ゴメン。辛いって注意するのを忘れていたわ。でも、おいしいでしょ?」
「うん、おいしい、おいしい」
 浩之はなおもムセながら応える。
 本当にトマトの味やら牛肉の味が酸っぱいパンの味と混ざり合って、何だかジワッと舌に絡みつくよう
でおいしいのだ。
「本当に料理上手いなあ」
「ふふ……いつも作っているもの。日本食だって出来るわよ」
「それに……あんた日本語もペラペラだなあ」
「『あんた』じゃないでしょ。ヒ、ロ、ミ。もう、自分の孫の名前ぐらい覚えてよ」
「……」
「ヒ、ロ、ミ! 言ってみて」
 浩美に急かされ浩之はまるで出来の悪い生徒のように小さな声で呟く。
「……ヒロミ」
「そうよ、ちゃんと呼んでよ、浩美って。わざわざお母さんがおじいちゃんの名前の一字をとってつけてくれたんだから」
「えっ……、本当か?」
 孫娘は浩之の問いかけを無視して続けた。
「それからね、家じゃ日本語しか話さないの。だからお父さんも日本語ペラペラよ。いつか日本の頑固祖父(じい)さんと一緒に暮らす時、アムハラ語じゃ困るでしょ?」

 チュン、チュン、チチー、窓の外で鳥のさえずりが聞こえる。カーテンの隙間から差し込む光がだんだんと強くなってきて夜の闇を溶かしていく。透明な朝陽が少しまどろんだだけでほとんど眠れなかった浩之の瞼を優しく愛撫する。

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(そうか、一日は朝から始まるのだった)
 浩之は新鮮な発見でもしたかのように思う。
 舞が去ってからの十五年間、朝も夜もそれと意識したことはなかった。暗く冷たい淀んだような時間の底で、じっと蹲ったまま日々をやり過ごしていたような気がする。生きているのでもなく死んでいるのでもなく。
(今、何時だろう)
 枕もとの目覚し時計に手を伸ばして薄明かりの
中で時間を確かめる。
(四時半か……)
 昨日やって来た孫娘は、まだ二階で寝息を立てていることだろう。けれど、もう少ししたらあのこ孫娘は起きてくる。「朝」なのだから。「おじいちゃん、おはよう!」と大きな声で言いながら。
「朝か……」
 浩之はもう一度呟いてからゆっくりと起き上がった。敷きっぱなしでカビ臭くなった布団をたたんで押入れの下段に放り込むと、上の段から茶色く変色したダンボール箱を取り出した。
 その中には開封していない舞からの手紙がぎっしりと入っている筈だった。決して開けることを自分に許さなかった大切な大切な娘からの手紙が。
 舞が許せなかったから手紙を読まなかったのではない。手紙を読まなかったことは浩之が自分に課した舞への贖罪だったのだ。確かに、最初は舞のことを怒っていた。自分が「出て行け」と言って追い出したのにもかかわらず「自分を捨てて出て行った」娘に腹を立て、手紙など読んでやるものかと思っていた。
 けれどもいつの頃からだろう。一年、二年、三年くらい経った頃からだろうか? 毎日、毎時間、いや、一瞬たりとも脳裏から離れないあの日の哀しみに歪んだ舞の泣き顔と対峙しながら、次第に疑問を抱くようになっていったのだ。一体、舞はそれほどひどいことをしたのだろうか? 好きな人が出来て一緒になりたいというのは当たり前のことではないだろうか? たとえそれが外国人だったとしても。俺はあの娘のためだと思って結婚に反対した。けれども本当は自分の幸せだけを考えていたのではないだろうか?
 そんなある日、浩之はぼんやりと古いアルバムをながめていた。そこここに幼い頃の舞の笑顔がアルバムからこぼれんばかりに散らばっている。
 可愛い、可愛い、宝物のようだった舞。いつも自分の腕の中で笑いかけてきた天使のような舞。片時も離したくはなかった……。
(片時も離したくはなかった?)
 その瞬間、浩之は雷に打たれたような衝撃を受けた。
 長い間の疑問は、その時、確信に変わった。
「俺はただあの娘(こ)を手元へ置いておきたかった故にむごい仕打ちをしてしまったのだ」
 その確信に触れた時、浩之は声を上げて泣いた。それは舞が去ったあの日流した怒りや口惜しさにまみれた涙ではなく、娘にすまないことをしたと心から悔いて溢れ出てきた涙だった。
 けれどいくら後悔しても失われた時間は二度と戻ってはこない。あの日、舞を傷つけ、楽しかった想い出も幸福な未来も滅茶苦茶にしてしまったのは他ならぬ自分自身だったのだ。ならばせめて娘の今の幸せを壊さないようにそっとしておいてやりたかった。それが今の自分にできる唯一つの償いのように思えた。だから浩之は舞からの手紙を読むことを自分に禁じたのだ。一度(ひとたび)読んでしまえば身勝手に「帰ってきてくれ」と懇願してしまうかもしれない自分の弱さを恐れたのだった。
 浩之はダンボール箱の蓋をそっと開けると、一番隅に入っていた空色の封筒を一つ抜き出した。ペーパーナイフで丁寧に端を切り開くと同時に一枚の写真がハラリと落ちた。
 色褪せた写真の中央で産まれたばかりの赤ん坊を抱いた舞が微笑んでいる。それは浩之の網膜に張りついて消えない、出て行った日の泣きはらした顔ではなく、二人で暮らした楽しかった日々に見せた娘の――見る者が思わず微笑み返したくなる――あの取って置きの笑顔だった。写真の下の白い縁にボールペンで書かれている「愛するお父さんへ」の文字が舞の笑顔と変わらぬ優しさで、浩之の眼の中に染み入ってきた。

 浩美は七日間滞在した。
 その間、浩之はこの天衣無縫な孫娘に振り回され続けた。シンとしてカビ臭かった家の隅々に大きな笑い声が響き渡った。
 エチオピア人を父親に持つ浩美は、肌の色こそ少し黒かったが、驚くほど母親である舞に似ていた。笑う仕種、上目使いに軽く睨む眼つき、得意そうにそびやかす眉、安心しきった安らかな寝顔……。どうかすると浩之は、遠い昔の舞との日々の中に身を置いているような錯覚に捕らわれるのだった。

 浩美がエチオピアへ帰る前の晩、浩之は二階へ上がり、浩美の部屋の襖をそっとあけた。浩美は薄っぺらな布団の上で規則正しく寝息をたてていた。網戸の外から差し込む青い月の光が優しく闇の中を漂っている。安らかな安心しきった寝顔が月明かりの中に浮かんだ。こんな酷い祖父(じい)さんのところへ、この孫娘(こ)は遠くから幸せを運んで来てくれたのだ、と思った。
「本当に良い娘(こ)に育ったものだ。こんな良い子を俺は殺そうとしたんだ……」
 ポツリと呟く浩之の胸は自責の念で押しつぶされそうになる。浩之は溢れそうになる涙をこらえながら再び襖を閉めようとした。
 その時、薄闇の中から眠そうな声が響いた。
「おじいちゃん、眠れないの?」
「う、うん、ゴメン。起こしちゃったかな?」
「ううん、大丈夫。何かあったの?」
「いや、ただ明日帰るんだと思ったら、急に浩美の顔を見たくなったんだ」
 浩美はゆっくりと布団の上に起き上がると微笑んだ。
「ねえ、おじいちゃん、あたし達、離れていてもいつも一緒よ」

 明日からお盆休みに入るからだろうか。空港の出発ロビーは海外へ向かう人達でごった返していた。大きなリュックを背負った子供たちや金切り声で小学生の男の子を叱り飛ばしている母親。日本旅行を終えて帰っていくお土産を抱えた外国人の集団。出発時刻をアナウンスする放送や迷子の呼び出し。
 そんな喧騒の中、浩之は一人取り残されるような気分を拭い去ることが出来なかった。浩美はもうすぐエチオピアへ帰る。バンコクを経由して十八時間の一人旅だ。
 搭乗ゲートへ向かう時間が迫っていた。残されたわずかな時間が掌の中の砂のようにサラサラと指の隙間からこぼれ落ちていく。その最後の一粒がなくなる前に浩之は、今まで聞けなかった事を思い切って切り出した。
「ねえ、浩美。いきなり訪ねてきて、頑固祖父(じい)さんに追い返されるとは思わなかったのかい?」
 浩美は手荷物の赤いリュックを右手で抱えたまま小さく笑った。
「全然。だってお母さん、お祖父(じい)ちゃんのこと、とても優しいっていつも言っていたもの」
「お母さん、お祖父(じい)ちゃんのことを怒っていたんじゃないのか?」
 浩美はもう一度白い歯を見せて笑った。舞の子供の頃とそっくりの笑顔で。
「私ね、お母さんにさんざん聞かされて育ったの。愛の形って人の数だけあるんだって。それでね、その形が少しばかり異なるために擦れ違うこともあるんだって。愛しているのに傷つけ合ったり憎んだり。人間って馬鹿ね」
 一言、一言ゆっくりと区切るように話す浩美の声は、とても大人びていて、砂地に染み込む水のように浩之の心に届いてくる。
「でも、いつかきっと、心から愛していれば分かり合える時が来るんだって。いつもいつも子守唄みたいに言っていたわ。あれはもう、宗教ね」
 浩之は頬に流れ落ちる涙を拭おうともせずに立ち尽くしていた。舞との空白の時間がゆっくりと埋まり、止まっていた時が再び流れ出していく。今度は舞の娘と夫も加えて。その温かい流れに身を委ねながら浩之はようやく言葉を口にした。
「また来るんだよ。切符、送るから」
「うん、来年はみんなでこっちへ帰ってくるから」
「えっ?」
 聞き返した浩之に応えることもなく、浩美はヒゲだらけの頬にそっとキスをすると駆け出した。振り返り振り返り、大きく手を振りながら。
「お祖父(じい)ちゃん、泣いちゃダメだよー」
 遠くで叫んだ浩美の声が優しく耳元を撫でて、
雑踏の中へと消えていった。

 飛行機が雲の切れ間でキラリと光る。青空の中へ溶け込んでいく機体を見詰めながら、浩之はふと遠い日の自分の声を聞いたような気がした。
 舞、舞、お空へ手を伸ばしてごらん
 まい、まい、ほうら、お日様がつかめるぞ      (了)