2006年11月01日
<第17回浦安文学賞奨励賞>
天蓋(ヴォルト)
山下奈美 田中曽女・画
(やました・なみ=昭和47年7月、静岡県生まれ。津田塾大学芸学部卒。主婦。静岡市在住)
Vault(ヴォルト)。高跳びの意味を持つ英単語が、天蓋を表す名詞にもなり得ることを、水木亮介が知ったのは十五の春だ。
あれから五年ごし空を見ている。自分を手招く、無限の天蓋(ヴォルト)を仰ぎ見ている。
じいちゃん、おれはまだ跳びたいと亮介は叫んだ。ひっそりと敗れ去った高校三年の夏だった。祖父母の前に額をすりつけて嗅いだ古畳の香を、今もはっきりと覚えている。
―もういちど跳びたい、じいちゃん、おれを大学に行かせてください。
顔を上げろと祖父はどなった。そんなことはわかっている。しゃんと顔を上げんか。
亮介は飢えたように仰向いた。初夏の陽ざしが顔を叩いた。一直線に空を区切るバーの真下で、補助をつとめる後輩の森啓太が、しゃがみこんだなり放心している。啓太のむこうに、西新宿の高層ビル群がはがね色の先端を突き立てて、ぎらぎらと蜃気楼に揺れていた。
(あいつは)グラスファイバー・ポールを構え、亮介は30mの助走路を加速する。(あの男は、5mの空を知っている)
ボックスにポールの先を突っこんだ。しなったポールの復元力で、空をひと思いに駆けあがる。身をひねりざまに放りだし、したたか激突―見えない天蓋(ヴォルト)に弾かれて、亮介はバーとまつわるように落下した。
ピットに埋まった亮介を、土埃と光の粒子が包みこむ。「亮さん」と森啓太が走り寄り、底抜けの笑顔でひとさし指を突きつけてきた。
「亮さん、ドンマイ」
幼げな瞳が、ふと濡れたように黒光った。
待ち望んだオフの前日とあって、その晩には多くの部員が新宿の安居酒屋に集まった。
さきほどの跳躍が、なお水木亮介の全身にこびりついている。それでいながら亮介は、すべてを忘れられるほどの酒を飲めない。
「生(ナマ)、追加っ」
早くも調子を上げているのは十八歳、入部まもない森啓太で、顔色ひとつ変えずにぐいぐいジョッキを乾している。
この春、ふたりの上級生が、四度目の夏を残したまま申し合わせたようにピットを去った。新入生の啓太は、今や亮介以外に唯一の棒高跳び選手(ポール・ヴォルター)―つまり亮介にとって、ただひとりの近しい部員だった。ふたつ歳下、人なみに背ばかり高いが、好戦的な顎の線のまだいかにもきかん気な後輩である。
彼を見るたび亮介は、おれにもこんな小生意気な弟があったなら……そしてまた両親が存命なら、自分らの兄弟喧嘩をどのように叱る人だったろうと、思い巡らさずにいられない。
亮介を育てたのは父方の祖父母である。車両事故で命を落とした両親は、亮介にひとりの弟妹も、父母としての記憶のかけらも遺さなかった。
「手に負えんガキだろう?」
長距離選手の谷中に腕をつつかれ、亮介は我に返った。森啓太は二年生部員を相手に、いっぱしの陸上談議と飲み比べに夢中らしい。
「いいさ。明日はオフだもの」
傍若無人な弟分を、亮介はつねに、何を咎めるでもなし黙ってそばに置いていた。
棒高跳び選手(ポール・ヴォルター)がバーをかけ、一度の跳躍を終えるまでには、うんざりするような種々の準備と確認作業が待っている。そこには心安い仲間のひとりも欲しい。コーチの来ない日には、ふたりは互いの跳躍フォームも確かめ合うし、跳躍者の捨てたポールを傷めないよう落下地点で受けもする。暗黙の連帯感が、いつか啓太への奇妙なじょう情に変わりかけている。
「……ああ見えてクソ真面目な奴だよ。跳ぶときだけは」
「クソ真面目だから、ものを知らんのだ」
谷中はわりばしを両手に持って、枝豆の皿を騒々しく叩きながら啓太を呼んだ。
「ケイ。おまえの自己ベストを言ってみろ」
ふりむく啓太の眼が蒼く光った。公式記録ではないが、屋外で5m11㎝を出したことがあると、啓太は素直に返事をよこした。
部員らの口から、感嘆の呻きがもれた。
そうだろうな。亮介はうなずく。
岐阜の公立高校で、4mラインに挑みつづけた平凡な一選手の亮介も、啓太の母校なら知っていた。静岡県西部の実業高校である。専属コーチに率いられ、何種もの陸上競技で高い実績を誇る、全国屈指の強豪だった。
「ケイの高校には、棚橋って選手がいたな。棒高跳びの」
「はい、タナ先輩なら、亮さんと同い年」
名を口にするのも恐れ多いと言わんばかりに、啓太は瞬時にしゃちこばった。
棚橋充、今も都内の有名私立大学で跳んでいる。その棚橋が高校三年の春、とある陸上雑誌のインタビューに応じているのを、亮介は書店で立ち読みしたことがあった。
『今年は』と彼は述べていた。『5m20㎝ラインを、安定して跳ぶ力をつけたい』
こんな男がいるのだと思ったものだ。
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高校時代、亮介の自己ベストは4m46㎝に留まった。中学校では短距離選手(スプリンター)としてならし、高校入学時に棒高跳びに転向した亮介である。その経歴を思えば悪くない。だが、5mの天蓋(ヴォルト)をこともなげに突きやぶる選手たちの存在は、昔も今もあまりに眩しい。
―じいちゃん、もういちど跳びたい。
その時まで帰るまいと心に決めて、亮介は東京に出た。
グラスファイバー・ポールを握った者なら、誰でもいちどは5mの高みに線を引く。5m選手(ヴォルター)を夢みて跳ぶだろう。だが、あたかもその代償のように、すべてをかなぐり捨てて故郷を出た頑なさの理由は何か。焦がれた空に届かぬまま、亮介はもう丸二年、自分を育てた祖父母と会っていない。
「亮さん、好きな棒高跳び選手(ポール・ヴォルター)がおりますか?」
ふいに啓太が斬り込んできた。
「リー・バーンズ」
亮介の即答に、啓太は明らかにけげんな色を浮かべてジョッキを置いた。
「何者だ、そりゃ」とだれかが声を放った。
「一九二四年、パリ・オリンピックの金メダリスト。そうでしょ亮さん」よどみなく啓太が述べ、亮介に同意を求めるように見かえった。「十七歳―十八になる数日前に3m95㎝をクリアした―当時、史上最年少の金メダリスト」
「驚いたな。バーンズをそうすらすらと解説できる男は、まず居んだろ」
亮介は思わず舌を出して笑った。
「しかし、3m95㎝で五輪優勝ですか」
後輩たちの声に、いや、考えてみろと、谷中が口を出してきた。
「そもそもグラスファイバー・ポールの公認されたのが、ええと、いつだっけな亮介」
「五輪で言えば、六四年東京だ」
「だとすりゃ、妥当な記録だぜ。二十年代、グラスファイバーどころか、スチールの時代になっていたかも怪しいからな」
「スチール・ポールでないとすると」
「その前は竹でしょう」啓太が鋭く言いきった。「最もおれたちだって、はじめは竹です、曲がらん竹で3mも跳べないうちは、グラスファイバーの弾力だって使いこなせん」
中世イギリス北部では、人々が船竿を支えにして、橋のない小運河を跳び越えていた。それがしだいに競技化し、樹木や釘つきの金属棒で人々が高みを求めはじめた十九世紀前後から、ポールは急速な変化を遂げたのだ。
「―四年後のアムステルダム五輪で、リー・バーンズは五位に終わった」
亮介はようやく話を戻した。気心知れた仲間うちでさえ、舌の滑らかなほうではない。つい、情報の断片を投げ与えるような物言いになる。
「記録は3m95㎝」
一瞬、座が何かを期待するように静まった。
「……それで?」促したのは谷中である。
「だから、そこがおもしろい」
「どこが?」と谷中は言った。
数人の部員が、時間差で失笑した。
「つまり、3m95㎝の空に、栄光と敗北を見た男の話だ」
「憧れを抱かせる話じゃねえぞ」
「まあ、そうだが」
口論では手も足も出ない亮介を、仲間はテーブルの端を打って笑いながら眺めている。
支柱の上に一本のバーを横たえたとき、空にはある意味が生まれるだろう。バーになぎ斬られ、数値を持った蒼穹に、もはや自然物としてのふところは存在しない。上空に吹く風さえ、跳躍を緻密に司るファクターと化す。
リー・バーンズ、わずか十七歳で栄光を見た3m95㎝。同じ空は四年後、彼の眼にどんな色で映ったか。彼の名はそれ以降、急速に陸上史上から消えてゆく。
「たしかに、憧れとは違う」亮介は素直に認めてグラスを取った。「ただどうにも、頭から離れん棒高跳び選手(ポール・ヴォルター)なんだ」
おそらくは栄光によって彼に憧れ、敗北によって彼に惹かれた。堅牢な天蓋(ヴォルト)に叩き落とされる瞬間、亮介は、胸に彼の影のイメージが突きぬけるようにも思う。
亮介がウーロン茶をすするのを合図のように、座は再び賑やかに動きだした。森啓太だけが、しばらく黙って亮介を見つめていたが、
「―陸上なんて」ふと顔をそむけ、冷やしトマトに真上から箸を突きさした。
「悲劇的だな、どいつもこいつも。トラックの連中を見ろ。砂粒ほどのタイムを競って、日がな、埃の底を這いつくばってる」
「這いつくばるはひどいな」
短距離選手(スプリンター)の榊が苦笑して日本酒を舐めた。
啓太は黒い髪をふりはらって顔を上げると、
「ヴォルター棒高跳び選手だってそうでしょ」
テーブル越しにきらりと亮介を睨んだ。
「世界でいちばん高い建物、知っとりますかセンパイたち、台北101の508m」
啓太の口からは、ときおり唐突なデータが飛びだして周囲の者を面くらわせる。
「国内なら横浜ランドマークタワー296m、都内一は東京都新都庁舎243m、これだけの摩天楼に囲まれて、おれたちなんて因果なもんでしょ。ビルの谷間で、センチ刻みの空を跳んでいる」
皆が笑止顔を交わしたところへ、新たな瓶ビールと焼きうどんが運ばれてきて、卓上によどむ紫煙が大きく揺らいだ。
「気にすんな」
谷中がそっとこちらを覗いた。亮介は笑いながら、手近のビールを注いでやった。
「気になんかしていない」
亮介はむしろ爽快だった。ときに啓太が、寡黙に生まれついた自分の代弁者とさえ思えることがあった。
そうだ、おれの空を言葉にするなら、つまりそういうことだろう。亮介はふと、上空からバーもろとも落下する、もはやなじみすぎたあの感覚にとらわれた。昨年の練習中に4m93㎝の自己ベストを出して以来、5mの空は、再び自分から遠ざかったように亮介には思えた。
4m93㎝。その7㎝先に横たわる空を知ったところで何の意味があるか、虚しい自問が胸の内に叩き入る。高みへの飢餓が、ときおり生ぬるく湿って、助走の力を鈍らせた。
啓太はそれに気づいていたのだろうか。
夜半、最後の仲間と飯田橋駅前で別れると、亮介は同じ方角に戻る啓太を連れて、しばし夜道をそぞろ歩いた。
さすがに啓太は、ちょっと放っておけないほどの酩酊状態になっていた。おぼつかなく歩いては足を止め、やがて大きく天を仰いで、
「亮サン、―亮サン」
呂律もまわらず呼びたてた。
「頼むで、そんなに速く歩かんで下さいよ」
アルコールが作用して、啓太の遠州訛りがいくぶん荒い。同じ東海地方を出た亮介には、それが身体全部で感じとれた。
罪のない弟分に、ときに手を噛まれて辟易しつつも、彼とは日々背中合わせで空を見ている。どこか存外心楽しく―また、それだけのことでもあった。棒高跳び選手(ポール・ヴォルター)が対峙し、果てなき対話をつづける相手は、頭上に在る一本のバーにすぎない。
亮介は歩みを緩め、肩ごしにふりむいた。
「吐くなら、さっさと吐いちまえよ」
啓太はすがりつくような眼で佇んでいる。泣き濡れた子犬でも苛めるような、一種残酷な悦びにかられて、亮介は「早く」とぞんざいに顎をしゃくった。
啓太は素直にかたわらの電柱に近寄っていったが、片手で身を支えると、俯くかわりにまた空を見た。亮介もつられて仰向いた。ぽっかりとうつろな月が出ていた。淡く血を滲ませたような色合いだった。
「月が出とるな……」
亮介は再びぶらぶらと歩き出した。
啓太はいきなり電柱から身を剥がし、大またに追いすがってくると、
「親の顔、覚えとりますか亮サン」
意外な言葉を背後から突き立てた。亮介はゆっくりと首を回して啓太を見入った。
「生後九ヶ月だった」
それだけの言葉で亮介は応え、啓太は一瞬、とまどうような表情を見せた。
父母の乗った乗用車は、小雨の降るバイパス上で、対向車線をはみだしたトラックと正面衝突したということだ。
―おとなしく留守番しておれ。
亮介の幼いころには、それが祖母の口ぐせだった。キヨ、やめろ。祖父のしゃがれた怒声も覚えている。
何が悪いですね。あの子らは亮をわたしに預けて言ったらが。六時には戻るって。亮、いい子で待っとれ、父ちゃん母ちゃん、きっと土産を持って帰ってくるに。
待つことを諦めたのはいつだったか。亮介は祖母とならんでブランコに腰かけ、白すぎる飛行機雲が、空に真一文字を描くのを黙って見ていた。
―なあ亮介。父ちゃん母ちゃんは、もうはや、帰ってこんかもしれんなあ?
そう言って祖母は、亮介の前で初めての涙をこぼしたのだ。
しばしのあいだ、森啓太の長身は、脂肉のような月光の底で動かなかった。
「……覚えとらんほうが、幸せなこともある」
闇の一部のように吐き出された啓太の声が、路地を這う夜風に吸われた。
どこかで車が激しいクラクションを鳴らした。頭上からすすけた街灯が、左後方から月の光が落ちてきて、ふたりの足もとに、それぞれふたつの淡い影法師を描きあげていた。
「おれのオヤジは、十年前に、女をこしらえて出ていった……」
喉に絡みつくような声で啓太は言った。
啓太も父のない家庭に育ったと聞いてはいたが、その事情は初耳だ。大通りの喧噪はすでに遠のき、啓太は路地を歩きつつ、古びた板塀に右手の指を触れていた。
「ニヤニヤしとって愛想ばかりいい男。こんな月の夜は大嫌いだ。ケー坊、こんどドラゴンズの試合を観に行くぞとわめきながら出ていったのを、おれは何か感じて月の光のなか追っかけたけれども、もうオヤジの背中は見つからなんだ」
塀をなぞる啓太の右手が、いつか拳になっていた。ぐっと折りこまれた手指の関節から、白く血の気が引いていた。
「亮サンには想像もつかんでしょ、幻滅よりゼロがどれほどマシかと、―そう思いながらおれは今でも、すれ違う男の顔をひとつひとつ覗いて歩く」
南を越えた月が、声もなく憤るように、その光を増していた。
ゼロ。はじめから持つことのなかった親の記憶か。亮介は黙ったまま足を運んだ。
ゼロにはゼロの苛立ちがある。それを忘れていられるのは、まばゆいフィールド上で、風に挑んで走るひとときだった。そして十五の春、これ以上は出せまいと感じたスピードに任せて、亮介は空の高みに駆けのぼることを覚えたのだ。
短距離選手(スプリンター)から棒高跳び選手(ポール・ヴォルター)へ。
背丈は無邪気なほど伸びていた。無茶はやめろと色をなす祖父母に向かって、亮介は伸びやかな長身を屈めると、かすかな光沢を持つ真新しいグラスファイバー・ポールを誇らしげに見せた。
―大丈夫だってばあちゃん。ポールは軟らかいがじゅうぶん強い、さわってみろよ。
怖いものに触れるような祖母の仕草を亮介は笑った。笑いの底につんと通った痛みは、今も胸の裏側に染みて忘れることはない。
森啓太は激情がさめたか、背後からひたひたと、淡い二本の影を踏んでいた。黒い前髪が垂れ落ちて、おとなしくうなだれた啓太の、今は青白くも見えるひたいを隠しかけていた。
初夏の夜風に、灼けた古畳が一瞬香った。
―じいちゃん、もういちど跳びたい。
ひっそりと終えた十八の夏、祖父母は七十五歳を越えていた。
―じいちゃん、カンベンしてください、おれはたぶん、―
もういい、わかっとると、痩せた白髪の祖父は、喘ぐように言いさす亮介の髪を、骨ばった掌で痛いほど撫でた。
天蓋(ヴォルト)。それは無限に見えながら、ときに自分を封じ込む。手招きながらも、けして自分を受け入れることはない。バーを仰ぐ刹那の突きとおるような戦慄を、亮介はいつかどこかへ失くしてしまった。それはわずか7㎝のはざまで行き暮れる、自身そのものの喪失に思える。
気づくと背後の足音が遠のいていた。亮介は舌打ちして舞い戻り、啓太の脇に右腕をさし入れた。
「世話焼かせやがって! もうすぐそこだぞ、おまえの下宿は」
ずさっと重い啓太を担ぎ、無言の月に打たれたなりで亮介は歩いた。水底のようにふしぎに冴えた夜更けであった。
「ビルの谷間で」水銀色の光と対峙しながら、亮介は苦々しく呟いた。「センチ刻みの空を跳ぶ、か……」
単なる重力にすぎない啓太の身体を、亮介は息をきらせつつ揺すりあげた。
「こんなところで、おまえならもう跳ぶ必要なかったろう。ケイならもっと……」
その言葉が正気のひとところに触れたのか、啓太は表情のある眼を上げた。亮介の右肩が、わずかに軽く涼しくなった。
「去年、競技中の事故で」痺れた舌を持ちあつかうように啓太は口をひらいた。
「おれは肩をひどく傷めたです。回復が遅れて、タナさんのような進路も逃した、けど、もうじゅうぶんだろうと―おれは内心、すべて終わらせた気でいたのかも」
ひと息に喋って啓太は、大きく息を吸いこんだ。
「なのに、気づけばやっぱり、輪切りの空をグラスファイバー・ポールで跳んでいる」
そうか、そういう5m選手(ヴォルター)もあったかと、亮介は小さく笑って空を仰いだ。
「5m?」啓太はどうにか、身を立てなおそうとしたらしい。スニーカーの底で影を踏みにじりつつ、啓太はとつぜん、火の玉でも投げるように逆らった。
「5m、そんなもンは関係ない。おれも亮サンも、跳ぶことはやめられん。やめられるわけがない。なぜって、」
ふいに啓太の歩みが止まった。
「オマワリだ」
ささやくようにそう告げた。
亮介も瞳をこらした。前方の坂に、二台の自転車の影が現れている。高低の車輪のきしみが絡み合い、ところどころに閃く反射材が、しだいに彼らのかたちをつくる。それが巡査だとは、獣のように目の利く男か。
啓太はつかのま、長い睫毛をしばたきもせず思案顔であった。やがて、いきなり眼を輝かせると、
「逃げろ亮サン!」
ただごとでない声をはりあげ、亮介を突き飛ばすなり、もと来た道を駆けだした。
「ケイ……」亮介は、泡を食った。「どうした、おいッ」
巡査らしき男の何か叫ぶ声がした。懐中電灯の光の輪と、するどい車輪のきしみが、みるみるこちらにせまり来た。バカヤロー、ケイ止まれと呼びながら、亮介もまた逆上して逃れはじめた。
泥酔した身体のどこにそんな力が残っていたのだろうか、啓太の逃げ足はめちゃくちゃに速かった。完璧なスプリンター短距離走者のフォームで啓太は路地を折れ、夏草の茂る駐車場をつっきり、点滅信号のT字路をかるがる跳んで、さびれた夜更けの商店街を疾走した。
追っ手はとうにまいていたが、それでも啓太の脚は鈍らなかった。稲荷神社の角をついと曲がるシャツの背が見え、ちくしょォ、見失うものかと亮介も夢中で走り込んだ。
曲がった先は小さなドブ川だった。古びた石橋の上で、啓太はさすがに半身を屈めてへたばりながら、両手を叩いて笑っていた。
「なぜ逃げる……?」
亮介もまたがっくりと俯いて、膝に両手をあてがった。いちどきに噴き出した汗が、首筋を回って垂れ落ちてきた。
「条件反射スよ!」欄干に身を投げだし、啓太は天を仰いで笑いつづけた。「オマワリを見たら、何もせんでも逃げたくなるでしょ」
「逃げりゃ追うのも、オマワリの条件反射だワ」亮介は空気の薄さに声がかすれた。
「バカヤローが、要らんことしやがって」
「十八で酒飲んどるもん」と啓太は、本気ともつかない調子で高らかに言った。
「そんなことで捕まるものか。ここどこだ。おれ今、どこを走ったかもわからん」
ドブ川にそって古い瓦屋根が続いており、はるか彼方、西新宿の摩天楼の先端だけが輝かしい。瞳を巡らすと、空の明るみの際立つあたりが飯田橋の喧噪らしかった。
二度、三度、啓太は大きく胸を喘がせて呼吸をととのえると、
「―なぜって、おれたちには、越えつづけんとならんものがあるから」
亮介は虚をつかれた。
啓太がいきなり話を引き戻したと察するまでに、しばしの時間がかかった。まるで時空を超えて飛び移る、とらえどころのない鬼火に触れた気がした。
「亮サン」西新宿の空に、啓太は奇妙に澄んだ視線を伸ばした。
「おれには越えるべきオヤジがない。跳びこす背中も、追うべき足跡も見つからん。ハンコー期を迎えたころ、おれはたぶん、それが辛くてこの空高くにラインを引いた」
啓太は陽灼けした右腕をもたげ、ひとさし指で、夜空のひとところを水平になぞった。
「亮サンだって、同じと違いますか」
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遠い空が、サーチライトでほかりと桃色に明るんだ。おれにはよくわからん。亮介は呟くと、啓太とならんで石橋にもたれ、流れ落ちる汗を掌で拭った。
わからないはずはない。それは父を知らない亮介にもずっしりと埋めこまれた本能だ。
5mの天蓋(ヴォルト)に、いつからか亮介はある意味を託して跳んでいた。強大な空に打ち克ったそのとき、ようやくいっぱしの翼を手に入れて、自分を育てた祖父母のもとに帰ることができるのだと、そう考えていた。センチ刻みで置くバーは、つねに羽化の標(しるべ)であった。
「おれは5m選手(ヴォルター)として跳びつづけて、一度は競技生活を終結させた……」吐息とともに啓太は言った。
「それでもこうしてフィールドに舞い戻ったわけを、亮サンならわかるでしょ。おれたちに違いがあるとしたら、それは」
啓太は足もとの小石を拾いあげ、骨ばった掌にのせてつくづく眺めた。
「亮サンはいい男だな。きっと純粋な気持ちで空を見ている。けどおれは違う、こうして一段ずつ空を越えて生きのびたことを、いつかアイツに」
言いさして啓太は、いきなりみごとなフォームで小石を川に投げこんだ。汚れた水面(みなも)に映った月が、粉々に割れて飛び散った。
「むかしむかしは、おれ、野球少年だったんス」人なつこい笑顔を一瞬見せると、
「ちくしょォ、こんなことも今夜かぎりだ」
遠い眼をしてぽつりと言った。
亮介はふと、啓太がこのままピットを去ってゆくのでないかという思いにとらわれた。啓太の消えた広すぎる空とフィールドが、とつぜん、白茶けた冬波のような、途方もない味けなさをもって亮介の胸に押しよせてきた。
啓太はおそろしく真剣に、もういちど石を放って薄汚れた月を砕くと、
「帰りましょか」
けろりと笑い、水輪のひろがる暗い川面を打ち捨てた。
啓太の下宿の前にたどり着いたとき、すでに午前二時を過ぎていた。
「カノジョが来ている……」と啓太は、青黒い蛍光灯のともる二階の角部屋をそっと示した。ふり乱した髪を無造作に指でとかすと、啓太はだだっ子のように、赤錆びた金属階段の手すりにすがった。
「来ることはわかっとった……なのにおれ、いつでもこうして醜態見せちまう。アイツ怒っているかも」
「明日はオフだぞ」
笑いながら背をどやしつけてやると、啓太は何度か小さくうなずき、
「お疲れさまっス」
最後は照れ笑いをのこして背を向けた。
不規則な金属音が頭上に消えるのを待って、亮介は歩き出した。街灯もまばらな、ゆるい坂道をのぼった先に、西向きのアパートが建っている。コンクリート壁の割れ目から噴き出す野草に、ちかごろ紫色の小花が咲いた。
二時十五分、ひとごとのように傾く月の下で、亮介はしばらく、幾種もの光に満ちた空を見ていた。
もうずいぶん、遠くにやってきたのだろう。記憶の果てに、白い飛行機雲が真一文字を描いている。ブランコの鉄鎖を嗅ぎながら、幼い自分は、あの飛行機雲を越えたいと願ったのかもしれない。
亮介はフィールド上に座っている。
まだいくぶん冷たい地表を腿に感じて、入念に筋を伸ばし、脚を揉む。調整を終えると、光の粒に溺れるように胸を起こして、頭上に溜まる酸素を求めた。
トラックで助走練習にとりかかる。30mを疾走し、その果てに仮想したボックス位置を駆けぬける。首筋が風に打たれ、初夏の陽ざしに灼きつけられる。
(おれはやはり跳ぶだろう)
グラスファイバー・ポールを構え、ポール助走をくりかえしつつ、亮介の胸にその想いが風と絡まってぶちあたる。
自分自身がラインを引いた、空の意味を求めて跳ぶだろう。十五の春、竹棒で身の丈の空を越えたその日から、まっさらな天蓋(ヴォルト)をめくりあげるように生きてきた。跳べたら、これを跳べたら、より強大に立ちはだかる何ものかを越えられるはずだと。
7㎝のはざまから、自分をもういちどあの青さのなかに弾きあげたいと亮介は思った。だがそれには相棒が要る。こんな烈しい、脈打つような空の下では―。
竹竿を握ってひとしきり砂場で跳ぶと、亮介はフィールドを横切り、ピット前にやってきた。ボックスを点検し、素手で埃を払いかけたとき、背後からなじんだ気配が近づいた。朝陽に押された長い影を、すぐそれと信じることもできないままに亮介はふりむいた。
「今日はオフだぞ、ケイ」
「わかってます」ひどく一途な物言いだった。「ただおれ、亮さんが来るような気がして」
すでに黒々と濡れた髪の下から、洗い流したような瞳をこらす啓太の、Tシャツの裾だけが不規則に風に鳴っていた。
亮介は、遠い摩天楼に眼を当てた。
「ビルの谷間で」ひとつ伸びをしながら、謎でもかけるように口にした。
啓太はまじまじと見まもっている。
「亮さん、おれ……夕べのことを、実はよく覚えとらんのですが……」
思わず微笑して歩きだすと、
「あの、それで」啓太は慌てて追いすがり、「おれ、また何か、要らんこと言やせんでしたか」
「暑くなるぞ、今日は」
亮介は立ちどまって顎をしゃくった。
光の海のようなフィールドを、ふたりは肩を並べて見はらした。熱をはらんだ地表の風が、湿った朝の香をみるみる呑んだとき、ケイ、と亮介は静かに呼んだ。
「なぜ今日、おれが来ると考えた」
啓太は一瞬、小首をかしげた。その眼は支柱のはざまの摩天楼を見ていた。ややあって、濡れた前髪をばさりと払うと、啓太は大まじめに言いきった。
「だって、跳びごろの空でしょ」
(了)


