2006年10月01日
<暮らしの中の世界史>
モーツァルトが生きた18世紀
東京学館浦安高教諭 小橋正敏
9月12日、トルコ南東部の中心都市ディヤルバクルで爆発事件が発生し、死者は11人となった。
最近、トルコ国内の観光リゾート地などで爆弾テロが起きていた。ディヤルバクルは、トルコからの分離独立を求めるクルド系武装組織の一大拠点で、軍や警察との激しい衝突が繰り返されてきた(毎日新聞9月13日)。
クルド系の人々は、およそ人口2,000万~3,000万といわれ、今日のイラン、イラク、トルコの3国の国境地帯に広く居住し、オスマン帝国時代は領内に居住地があったが、1922年、オスマン帝国が滅亡して、トルコ共和国が成立すると、クルド民族主義を理念とする抵抗運動が起きた。
オスマン朝は、1326年オスマン1世の子、オルハンがビザンツの都ブルサを占領して、首都としたときから始まる。
1453年、メフメット2世はビザンツ帝国を滅ぼして、コンスタティノープル(イスタンブル)を首都とした。
1517年エジプトを併合、さらにはメッカのシャリーフ家を保護下に置き、イスラーム世界の盟主となった。その後、スレイマン1世の時代(在位1520~1566)に最盛期を迎える。
セリビア、アルジョリアを支配下に置き、ハンガリー軍を破った後、1529年、ウィーンを包囲した。一時、東地中海を制するが、1571年、レパント沖の海戦ではスペイン、ベネチア、ローマ教皇庁の連合艦隊に敗北する。
1683年、ウィーンは2度目のオスマン軍20万の攻撃を受け、ドナウ川を除く半月状の包囲網に囲まれたが、皇帝軍とポーランドの援軍によって救われた。この時、ヨーロッパはオスマン・トルコの脅威に震え上がった。
18世紀のヨーロッパでは、大きなトルコブームが起こる。当時は、オスマン・トルコの脅威が記憶に残っていて、残酷で野蛮なトルコ人というイメージはあったが、他方で異国に対する憧れやオリエンタリズムの魅力がこの時代のヨーロッパに広がり、トルコ風なファッションや音楽などトルコの文化を楽しむという風潮が広まった。有名なのがモーツァルトの「トルコ行進曲」である。
モーツァルトは1756年、オーストリアのザルツブルクで生まれた。彼が作曲したドイツ演劇「後宮からの逃走」は、ウィーンがオイゲンによって解放されてから100年、すなわちオスマン・トルコ撃退100年記念のオペラであった。
初演は、1782年7月、ウィーンの国民劇場(のちにブルク劇場)で行われた。上演させたのは、啓蒙君主といわれたオーストリア皇帝ヨーゼフ2世であった。
18世紀は「啓蒙の世紀」でもあった(カント『啓蒙とはなにか』1784年)。啓蒙とは、人間の理性に重きを置き、教育と知識の普及によって、無知蒙昧の段階から人びとを啓発することを意味する。
この時期、イギリスでは政治思想家ロック、フランスでは思想家モンテスキュー、ドイツでは文学者レッシングらが活躍した。レッシングは『賢者ナターン』(1777年)において、宗教における寛容の思想を展開している(弓削尚子『啓蒙の世紀と文明観』山川出版社)。
「後宮からの逃走」最終場面で、トルコの太守が非常に寛容な判決を下している。自分をだまして後宮から女性を連れ出そうとしたヨーロッパ人に対して「報復をせずに許す」という寛容の精神を発揮する。これはレッシングが行った啓蒙主義の精神の表明そのものであった。(一橋フォーラム21/田邉秀樹『モーツァルトのイスラム・オペラ―「後宮からの逃走」』社団法人如水会)
1781年、ヨーゼフ2世は宗教寛容令を発布して、すべての信仰の自由を認めた。最近のムハンマド諷刺画事件やローマ教皇発言などの宗教対立を思う時、宗教間におけるこの寛容の精神は想起されるべきであろう。
1786年、モーツァルトによってオペラ「フィガロの結婚」が作曲された。この曲は、のちに仏革命の近因となる。フランスに嫁いで王妃となったヨーゼフ2世の妹、マリー・アントワネットはこのオペラが気に入り、小さな劇場で上演させたのである。彼女はこの劇の本質に気がつかなかったのだった。(倉田稔『ハプスブルク歴史物語』NHKブックス)。
1784年、モーツァルトは啓蒙思想の伝播に貢献した友愛団体フリーメーソン啓明団に入会している。モーツァルトは多数のフリーメーソンの音楽を作っているが、中でも有名なのが最晩年の1791年に作曲されたオペラ「魔笛」であった。
スロバキア出身のソプラノ歌手、エディタ・ルベローバの歌う「魔笛」第2幕、夜の女王「地獄の復讐がわが心に燃え」で、最後に「お聞きください、復讐の神々よ、この母の誓いを!」と歌う彼女の天使の声は私を「魔笛」のとりこにした。
(歴史教育者協議会)
