2006年10月01日
<第17回浦安文学賞奨励賞>
花吹雪の宴
舞出 勉 田中曽女・画
(まいで・つとむ=昭和22年1月、神奈川県伊勢原市生まれ。早稲田大教育学部卒。会社員。伊勢原市在住)
桜舞い散る美しい花の園で、老夫婦が仲よさそうに死んでいたのは、花祭りの日の昼過ぎだった。ご機嫌伺いがてら出物の茶碗と軸を見せにきた茶道具屋が、鍵のかかっていない玄関で大声で叫んでも、爺さんも婆さんも出てこないのに首をひねり、かって知ったる庭の四阿に回ったら、老夫婦が桜の大木の下の緋毛氈に横たわっていたのだという。爺さんは、ハラハラと散る桜を見上げ、婆さんはその爺さんを凝視めるようにして、二人とも穏やかに微笑んで花に埋もれていたとか。傍らには花見の重箱や小皿を乗せた膳があったが、それらも花びらを盛ったようだったという。
死因は、二人ともに心臓麻痺ということだった。死後二十数時間が経過という検死結果だったから、亡くなったのは前日の昼から夕方にかけてということになる。
爺さんは岩下源次郎さん、七十五歳。婆さんはサキさん、七十二歳。若くしてこの地に住み着いたサラリーマン夫婦だったが、引退後は、呑気に花作りとお茶にいそしむ老夫婦だった。
葬儀は、桜の残花も散り終えた、その家で執り行われた。老夫婦の一人息子はとうの昔に亡くなり、他に子供はないので、車で数時間の隣の県から爺さんの甥っこが駆けつけて、葬儀いっさいを取り仕切った。老夫婦の身寄りは遠隔地が多いらしく、葬儀に出た親族はまばらだった。だが、この地で数十年を暮らした歴史は、近郊の友人や知人を呼び集め、広々とした花盛りの庭は参列者で埋め尽くされた。桜の終わった庭には、紫と白の藤の花房が垂れ、紅葉の真っ赤な芽出しも鮮やかだった。スイートピー、サクラ草、パンジー、矢車草、チューリップといった花壇の花々も咲き乱れて、人々は、春の香りに包まれつつ故人を偲んだ。
「仲のよいご夫婦じゃったが、亡くなる時まで一緒だなんて、仲がよすぎるわなあ。しかし、まあ、あやかりたいもんだよのう」
「いやあ、一緒でよかったんじゃないのお。年寄二人だけだから、これでどちらかが病んだり、一人残されたりするのはつらいからねえ……。それが、昨日まで元気でいて、突然に二人してポックリなんだから最高だよ。心臓麻痺なら、あっという間のことで、大して苦しまなかったんだろうし……」
庭先には、そんな会話が満ちた。どの顔にも悲しみらしきものは見られなかった。死ぬに若すぎる年齢ではないし、死に様がなんとも美しくさわやかに思えるから、誰しもが、まるで、満開の桜の花の下にたたずんでいるような錯覚に陥るのだった。
ただ、中には近しい友人もいて、老夫婦の苦しみを話す声もした。
「サキさんはねえ、この五年くらいは、目が回る病気で大変だったのよ。それで、お茶道の教室も締めちゃったし、あんまり出かけなくなって……。旦那さんがサキさんのこと、心配されてねえ、いつもつきっきりで、いい旦那さんだった……。お二人とも笑ったままお亡くなりだったというから、何かホッとさせられるのよねえ」
「そうそう、検診の日はタクシーを呼んで、二人で出かけられて……。あれは二、三週間前だったかなあ、旦那さんも内科の待合室に見えて、血圧がどうのとか、そこら中ボロボロだわね、とか……。病院では夫婦が分かれて診てもらうんだって笑ってらした……」
「そりゃあ、年だもの、誰だってどこかしら悪くなるわよ。でも、旦那さんはお元気そうに見えたけどねえ」
大勢の参列者の中には、余計な心配をする者もいた。
「この庭、結構広いなあ。二百坪近くあるよ。跡継ぎもいなくて、どうなるのかねえ……」「家は古いから取り壊しだろうけどなあ。あの甥っ子さんあたりがもらうんだろうよ」
しかし、桜の木の下に立つ一人の紳士は、そんな軽口の会話には加わらず、読経の僧侶の背中を凝視めたり、空を仰いだまま目を閉じて、微かに涙の気配を見せたりした。
吉田和彦、四十五歳。この町にある銀行の支店長代理だが、二十年前に亡くなった老夫婦の一人息子の同級生でもある。一人息子の運転する車が出合い頭にダンプカーと衝突し、息子は即死、助手席の吉田は足の骨折だけで済んだ。少年時代からの親友二人はそれぞれ違う道に進んだが、二十五歳の夏、夏期休暇の日程がたまたま一致したからと久し振りに旧交を温めた、その最中の事故だった。
吉田としては少しの落度もないのだが、以来吉田は、毎年の祥月命日や彼岸の前後には墓参りを続けてきた。また、銀行員として全国の支店を転々とする身でもあるから、墓参りがてら源次郎さんとサキさんに、その地その地の土産物を届けたりもしてきた。吉田の中には、あの時オレが岩下に連絡を入れなかったら……という思いがあり、墓参りも、親友の両親を訪ねることも、彼なりに必要な行動だった。
それが数年前、この町の支店の支店長代理になって故郷に戻ってきてからは、自分の両親のご機嫌伺いをする以上に、源次郎さんとサキさんを訪問する回数が増えている。両親はこの町で兄家族と一緒に暮らしているので何の心配もいらないから、気持が源次郎さんとサキさんの方により強く働くというだけでなく、源次郎さんの相談相手になったり、囲碁相手をしたりすることが多いからだ。相談の内容は、老夫婦二人が生活していくための財産運用に間違いはないか、とか、二人ともに病院暮らしになってしまった場合のあれこれとかに及び、吉田は、不明なことは調べ上げて、おそらく実の子供以上に親身になって、源次郎さんの疑問と希望に応えてきた。また囲碁では、勝負に熱くなった源次郎さんに、次の手合せ日を約束させられることも少なくなかった。
それでも嫌な顔一つせずに老夫婦の言いなりになる吉田に対して、源次郎さんもサキさんも、「カズちゃん、いつもありがとうよお。我が儘ばっかり言って申しわけないけど、恥も何もさらけ出せるのはカズちゃんしかいないからねえ。カズちゃんがいてくれて、実に心強いよ。私ら、この年になると身寄りもないようなものだし、頼りになるのはつれ合いだって言ったって、お互い、頼りない限りだからねえ……」と、時に恐縮そのものに言ってくれるから、吉田も複雑さの中にも満足感を覚えてきた。
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そしてこんな関係にあると、老夫婦が、吉田の子供の入学祝いや妻の誕生祝いを用意してくれていることも多かった。吉田は、これも親孝行みたいなものだと、ありがたく受け取ることにしてきた。オレは死んだ岩下の代わりのようなものだから、ここは黙って頂戴する方が喜んでもらえるというものだ、と。
こうしたつき合いの結果として、吉田には、老夫婦の日々が手に取るように分かる。財産がいくらあって、それがどうなるのかも知っている。遺言状が銀行の金庫の中にあり、遺産は全額、福祉施設に寄付されることになるのも知っている。そこまで事細かに分かるほどに相談相手になってきた。
でも、こんなに早く亡くなることまでは相談してくれなかった……。突然の心臓麻痺じゃあ相談も何もあるわけないが。それにしても……。
桜の木の下にたたずんだまま、吉田は、何度か首を傾げたい気分になった。二人一緒に、それも同時に亡くなるとは、どう考えてもできすぎている。以前、源次郎さんが、カミさんが弱気なことを言うんだ、と、ふと洩らした言葉も気にかかった。
しばらくして吉田は、桜の木の下を離れて、庭の南隅に向かった。あるいは、という思いがあった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
花祭りの前日は、朝から花曇りの上天気だった。その数日の暖かな日和で、この町の桜はどれもが満開のピークを迎え、美しい花吹雪も各所で見られ始めた。
起きしなに雨戸を繰って庭の桜を眺めた源次郎さんは、ハラハラと舞い散る桜に目を細めながら、「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と唱えた。
一息入れて、「しきしまのやまと心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」とも続けた。ただでさえ美しい桜が春の朝の清々しい大気の中で、柔らかな陽を浴びながら舞い降りている、その素晴らしさは古歌にでも託さなければ言い表わせはしないのだ。
ひとしきり桜を眺めた源次郎さんは、「うん、今日は婆さんと二人して、花見と洒落こもう。ここのところ、あいつも元気がよさそうだから……」
と、頷いた。
とは言え、宵の寒さがこたえる賑かな宴はいらない。花冷えという風流な季語も、年老いた身には痩せ我慢の限界を越える。互いにいたわり合いながら生きる自分たちには、夜の闇に浮かぶ桜より、陽春の光の中で歌う花の方が見応えがある。年寄りは年寄りらしく、明るい光に包まれて、心託せる者同士、静かに語り合いつつ、ここまで生きて来られたことを喜び合えればそれでよい。
源次郎さんはそんなふうに思いつつ、茶の間に顔を出した。
サキさんが朝粥の加減をみているところだった。源次郎さんの大きめの湯呑からは、ほのかに湯気が立ち昇っている。
「おはようさん。今日も早いじゃないか。具合もよさそうだなあ?」
「ええ、ここのところ、お天気が続いているから気持いいのよ。ホント、この間までのつらさが信じられないくらい」
身体を回して、顔いっぱいに笑みを湛えたサキさんは、その言葉通り実に楽しそうだ。その証拠に、若い頃からの癖だった、口を横に広げてちょっと小首を傾げる可愛い仕草をして見せた。皺の中に笑窪まで作っている。
七十を越した婆さんが今さらそんな思わせ振りをしたところで、なびく男がいるわけもなかろうが、それだけ気分がいいのだろう。 花の季節を迎えて、知らず身も心も高ぶっているのに違いあるまい。桜に限らず、この妻が大事にしているユキヤナギ、コデマリ、カイドウ、スオウ、キブシといった木々類も、オダマキ、ニリン草、タツナミ草、山吹草などの野草たちも、この庭で百花繚乱そのものだ。花好きであればこそ、そわそわと落ち着かなくなり、浮かれたくなくても浮かれてしまう、それがこの季節というものだ。ともあれ、普段から寝込み勝ちの古女房が元気なのはよいことだ。
源次郎さんは、湧き上がる微笑を抑えもせず、湯呑に手を伸ばした。
茶は、ちょうど飲み頃の温度で、舌の上で転がすと甘かった。雨戸が開く音を聞いて、いつもながらに気を利かせてくれたのに違いない。それも熱湯ではなく、多少冷ました湯を用意しておいて、頃合を見て、入れてくれたのだ。そうでなければ、こんなに甘い味は出ない。
あらためて感心しつつ、源次郎さんはサキさんの背中を眺めた。申し分ない古女房だが、それにしても心配なのは、病気のことだ。
サキさんがメニエル氏病で苦しみ始めたのは、かれこれ十年前、六十の声を聞いてからだった。この病気、生死に関わるものではないが、治りにくい難病だそうで、耳鳴りと難聴、吐き気、そして不定期に襲ってくる発作が特徴だ。
サキさんによれば、耳鳴りと難聴はそれほど重症ではなく、慣れてしまったから我慢の範囲だという。だが吐き気と発作の方は、始末に終えない。発作に見舞われると、まず目が回り、軽い時でも乗り物酔いのひどいのに似て吐き気がし、重症になると天井も壁も波打って、今にも押し潰されそうな感覚になるとか。身を横たえている蒲団すらも、大海の笹舟のように揺れ動いて、その恐ろしさは言葉では表現しきれない。カレンダーの文字など、とても読み取れない。こんな症状が数時間、時には十時間以上続くこともある。そうなったら寝ているしかないし、寝ていても怖い思いの連続で、悲鳴に似た叫びが飛び出ることも珍しくない。
そんな時は源次郎さんは、声が届く範囲に必ずいて、元気づけたり覗き込んだりする。隠居暮しで暇はたっぷりあるから、憎からず思っている古女房の看病を厭う理由もないし、何より心配でたまらない。医者は、この病気自体、命に別条ないし、サキさんの場合は他に悪いところはないので発作が起きても大丈夫、と言っているので、源次郎さんも心の底では安心しているが、その苦しみようを間近にすれば、万が一ということも考えてしまうのだ。あれは半年ほど前だったが、喘ぐような悲鳴があまりに頻繁なので、一緒の蒲団に入り、しっかりと抱き締めてやったことがあったが、婆さんは、「ありがとう。ああ、もう、このまま眠ってしまいたい。二度と目が醒めなくてもいい……」と呟いたかと思うと、すぐまた身体をよじって苦しい声をあげた。
ただ、長いことこの病気とつき合ってみると、発作の特性のようなものがあるのも分かった。天気がよくて湿気が少ない日は、発作はまず起こらないのだ。
発作さえ起きなければ、ほぼ健康体なので、発作のあの苦しみがウソみたいに思えてしまうとか。だから、昨日までは寝込んでいたのに、今日は姉さん被りで庭の水やりや草むしりをしたり、部屋の掃除に精を出したり、源次郎さんを散歩や買物に誘って、明るい笑い声を響かせてくれたりもする。
しかしお天気次第とは、厄介なものだ。晴れの日の次には曇る日があるし、いつまでも降り止まぬ雨もある。この先、もっと老いて、こいつは発作、オレも寝込んだりすると……。
茶を飲みつつ、サキさんの背を眺める源次郎さんは、知らず、いつもながらの心配事に思いの全てを占領されて、眉をひそめた。
そこへ、サキさんの明るい声が響いた。
「お庭のトウ立ちしたフキを、一本だけ取ってきて下さいな」
振り向いたサキさんは、夫が何を考えていたかを知る由もなく、さっきと同じように口を横に広げてちょっと小首を傾げる可愛い仕草をした。
サキさんの心は、フキノトウを細かく刻んで味噌汁に浮かべるのに決まっている。あるいは、粥に振りかけるのか。どちらにしても、格別の風味が出る。相変らずのこまやかな味つけだ。
源次郎さんは、ホイキタ、と身軽く反応して、腰を上げた。不安は振り払いようもないが、細君に気取られたくはないので、その場から離れるのにはちょうどよかった。
フキ風味の朝粥で朝食を済ませた後、源次郎さんはサキさんの指示のもと、野点に使うゴザと緋毛氈を桜の木の下に運び、夫婦二人の花見の席を作った。それを終えると、これまたサキさんの言いつけで、料理屋にカラの重箱を届け、その帰り道の酒屋で、白濁した高級原酒の四合瓶と、サキさん用に梅酒の角瓶を求めた。達者に自転車を操って、七十五でも元気いっぱいの源次郎さんだった。
サキさんは、庭のニリン草を摘んでおひたしにし、アケビの新芽をゴマ油炒めにした。カンゾウの若芽の酢味噌和えもと思ったが、これは育ちすぎなので諦め、もう一品、何にしようかしらと春の庭に野草を探した。
花見の重箱と、料理屋自慢の梅酒のおまけが届いたのは昼少し前だった。
老夫婦二人の花見の宴は、サキさんのお点前から始まった。それも早々に、梅酒の味くらべに移り、やはり料理屋自慢の手作り梅酒に軍配が上がった。
ハラハラと舞う花びらはサキさんの髪を飾り、源次郎さんの盃にも浮かんだ。淡い乳白色の原酒が薄紅色に染まったかにも見え、源次郎さんはそれをサキさんに示しつつ、うれしそうに呑み干した。
「あらためて眺めると、この桜、立派よねえ。結婚して直にこの家を借りた時には、そう、この四合瓶くらいだった気がするけど、今じゃあ両手でも抱えきれないくらい。そうそう、一郎が小さい時にはここにブランコが下がって……」
「そうだったなあ。そこへカズ坊が遊びにきて、二人して暗くなるまで遊んでた。カズ坊はあの頃から一郎のいい友達だったんだ。あいつの方が兄貴分って感じだったな。いい奴だよ。そうだ、今からあいつを呼ぶかあ?」「ダメですよ。やめて下さいよ。それに今日は休日じゃないし、忙しい支店長代理が席を空けられるわけないんだから……」
サキさんの語気がちょっと強かった。お猪口数杯の梅酒が利いたのか、頬を桜色に染めたサキさんだったが、その色も語気と一緒に心なしか増したようだった。
「全く、あなたときたら、いつまでもカズちゃんに頼りっ放し、甘えっ放しなんだから。実の息子でもないのに……」
サキさんの口を付いて出た言葉は静かだったが、唇の端には僅かに震えがあり、サキさんはそれを隠そうと盃を唇に寄せた。
しかし、待望の花見に浮かれ、古女房の久々の元気振りに安堵した源次郎さんは、その程度の微妙な変化などすぐには気付かない。サキさんのいざという時に備えて手酌酒も控えめにやっているつもりだが、ピッチはついつい早くなり勝ちだ。
そんな源次郎さんでも、しばらくして盃を置いた時には、真顔のサキさんのきつい視線に、おやっと思った。が、それを問う間もなく、サキさんが目を座らせた。
「いつも言ってるでしょ。あたしは一度も忘れたことがないんですよ。カズちゃんは確かにいい友達だったけど、だから一郎が死んだんだってことを。カズちゃんが親友でなければ、一郎は今も生きていたかもしれないんだから……」
「お前さんの気持は分かるよ。でもなあ、これまで何度も言ってるじゃないか。あれはたまたまカズちゃんと一緒の時に事故に遭っただけのことで、一郎に運がなかったんだ。カズ坊のせいじゃあないんだよ……」
「でも、事実は事実ですよ。カズちゃんが親友だったからドライブに出かけて……」
「やめよう、その話は……。とにかく私らはこの現実を受け入れるしかないんだよ。これまでだってそうしてきたじゃないか!」
「そうですよ。だからカズちゃんがあたしらのことを気にかけてくれるのも、素直に受け入れてきたんですよ。カズちゃんだってあたしらと同じで、あの事故で深い傷を負って、墓参りもしなくちゃあ気が済まなくなったんだし、後に残ったあたしらにも気を遣う羽目になったんですから……。あたしらがそれを受け止めてやらなければ、カズちゃんは自分の気持の持って行き場がなくなる。あたしにはそう思えるから、いつだってニコニコしている……。被害者だってことは、あたしらもカズちゃんも一緒よ。そのくらいはあたしだって……」
「そこまで分かってんなら、もう変なこと、言いなさんなよ。仮にあいつのせいだとしても、あいつはこれまで十分に償ってくれたよ。ああ、もうやめよう、この話は」
「ごめんなさい。もう、やめましょう。あたしだってカズちゃんには心底、感謝してるんですから……」
それからしばらく、老夫婦は黙り込んだ。二人とも静かに箸を動かし、桜を見上げた。
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気まずい空気を断ち切るように源次郎さんが小用に立つと、サキさんも腰を上げた。源次郎さんが脇から支えると、
「大丈夫ですよ。大して呑んでないし、目も回ってないから」
サキさんはニコッと笑い、真っ直ぐに歩き始めた。
源次郎さんが再び庭に降り立つと、サキさんが先に毛氈に座ろうとしていた。煮物の追加でも運んできたようで、膳の下に皿を置くのが源次郎さんにも見えた。
「さあ、やり直しですね。さっきはごめんなさいね」
源次郎さんが座るのを待ちかねたように、サキさんが謝ってきた。源次郎さんも微笑んで、重箱の煮染に箸を伸ばした。里芋も人参も、甘辛くいい味だった。サキさん手作りの、アケビの新芽のゴマ油炒めも適度に苦くて、やはりなかなかの腕前だ。下手な料理人に任せると、苦くて苦くて、口が曲がるほどだが、そこは年の功というものだろう。ニリン草のおひたしもシャキシャキしていて、これまた茹で加減を心得ている。
「うん、春の味だよなあ。うまい。さすがはウチの奥さんだ」
源次郎さんは、アケビとニリン草の皿を、箸の頭で叩いて笑った。
「これでタラの芽や山ウドまであったら最高だよなあ。どっちも、もう少しだけど」
「そうなのよ。あたしもさっき見たんですけど、タラの芽があと一週間ってところね」
この広い庭には、タラの木も山ウドも植えてある。茶道の師匠をしていたサキさんが茶花なら、源次郎さんは食えそうな野草や木を植え込むのが、若い頃からの趣味なのだ。この家と庭は、両親も一緒に住むつもりで探した末に辿りついた借家だったのだが、住み始めて十年目くらいに大家から安値での購入を要請され、思いきって手に入れたものだ。あの時は父親の預金と銀行からの借金で、かなり無謀に思えたが、その後の日本経済の急成長に乗って給料もボーナスも跳ね上がり、信じられないほど早く完済できた。お陰で両親も自分たちも、好き勝手な庭遊びや野菜作りを心置きなく楽しんでこられた。
しかし、あと何年、楽しめるのか……。この桜も切り倒されるだろうし、珍しい茶花も野草も価値が分からない者たちには……。
ふと眉をひそめた源次郎さんの顔に、その時、一際激しく、花吹雪が舞った。源次郎さんは両手で顔と頭を撫でて花びらを払い、サキさんは顔を花に向けて、うれしそうだった。「ところで話は変わるけど、あたしたちの今後のお金の心配も、この家の処分方法も、全部決まったんでしたねえ?」
サキさんの表情は微笑のままだった。
「うん、この間も話したじゃないか。オレとお前さんの二人ともが寝込んだりボケたりしたら、面倒を見てくれる施設の目途もつけたし、費用計算も万全だ。それに、いざとなったらここを売るか担保にする手もあるから、全然心配はいらない。それでも残った遺産は、交通遺児のための施設に寄付する……。一郎の事故の時にもらった補償金や保険金もその中に入っている。カズ坊がしっかりとやってくれたよ。それから、お前さんが言ったように、差替えもしたよ……」
「そうでした、そうでした。それでいいわね。お金や未練を持ってお墓に入ったってしようがないんですからね……」
サキさんが桜を仰いだ。今度は涙ぐんでいる。事故の補償金で何やら感じたのか、と、源次郎さんも、降る花びらを顔で受けた。メジロだろうか、薄緑色の小さな鳥が枝から枝に飛んで、花を突々いている。
顔を戻すと、サキさんが原酒の瓶を持って、どうぞ、と、源次郎さんを促した。濡れた頬をもう片方の手で拭いながらサキさんは、
「あなたのお陰で、お金の面でも、あたしの好き勝手なお茶の教室の件でも、あたしは幸せでしたよ。ありがとうございました」
と、妙に丁寧に言った。
源次郎さんは、先ほどの口論の前とはまた違うが、おやっと思った。そして、穏やかなまなざしのままにサキさんを凝視めると、サキさんの手が膳の下に入った。
サキさんは、源次郎さんを正面から見据えた。両方の目からどっと涙が溢れ出してきた。
サキさんが膳の上に置いたのは、またも、ニリン草のおひたしだった。源次郎さんは、ニリン草のおひたしはまだここにいっぱいあるじゃないか、と、不思議に思いつつ、サキさんから目が離せなかった。
「ごめんなさい。あたしもそろそろ一郎のところに行きたい。もう、つらい病気を我慢するのもイヤ。これから、もっともっとつらくなる……。身勝手なのは分かってますけど、こんな素晴らしい花吹雪の中で死ねるんだったら最高ですよ。こんな時を、あたし、待ってたのかもしれない……。あなたにはお世話になりっ放しだけど、これからもっと面倒かけてしまう。それだってつらいんですよ」
サキさんの涙は、さらに溢れ出た。
源次郎さんは、サキさんの涙ながらの言葉から、二皿目のおひたしがニリン草ではないことに気付き、返す言葉も見つからず、サキさんの脇に回って肩を抱えた。
「ダメですか? それとも、あなたもご一緒してくれますか? 後のことはカタがついてるんならいいじゃありませんか。あなたも一緒ならあたしも安心。カズちゃんだって解放されるでしょうよ。あの子も、一郎と親友だったばかりに、つらい思いをしてきたんでしょうから……。やっぱりあたし、カズちゃんにはいけないことしたのかしら? でも、でも、これがあたしの精一杯。これでいいんです……」
「ああ、いいよ。いい、これでいい……」
花吹雪がこの日いちばんに激しく舞い、源次郎さんもサキさんも、その吹雪の中に閉じ込められた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
吉田が踏み込んだ庭の南隅の野草園には、ニリン草を切り取った跡があった。
そこから数メートル離れた所には、赤い石で周囲を囲った別の野草園があり、そこにもニリン草そっくりの若い葉が生えていた。そして、案の定、こちらの葉も切り取ってあり、根を掘り上げた跡も見えた。
昨秋のことが吉田の中に蘇った。ここに奇妙な格好をした紫色の花が咲いていて、
「いやあ、これも茶花でなあ。婆さんが植えろって言うから、こうやって赤い石で注意信号にしてんだわ。オレはこんな物騒な花、好きじゃあねえけどなあ」
と、源次郎さんが笑っていた。
吉田は雑学知識で知っているのだが、その野草こそ、猛毒の根で知られるトリカブトだ。根だけでなく、葉にも毒がある。若葉はニリン草と見分けがつかないほどに似ていて、山菜採りの家族が誤っておひたしにして食べて、死んだ例もある。しかも、トリカブトの毒は一気に利く。呼吸が苦しくなり、急性心筋症とか心臓麻痺を起こす。加えて、検死や司法解剖でも、最初からトリカブトだと当たりをつけて調べないと、死因をトリカブトと断定することは難しいという。だから、普段から心臓の悪い人は、まず心臓麻痺と診断されるのだそうだ。
源次郎さんもここのところ、不整脈が出ていたから、心臓麻痺でもおかしくない。サキさんのメニエル氏病は心臓には無関係そうだが、もういい年だから不審も何もなかったのだろう。
根を掘り上げた跡の穴といい、掘った土がまだ小さな山になっている様子といい、吉田には、自分の直感通りだと思えた。
吉田は、滲み出る涙の顔のまま、青い空を仰いだ。
どこかに、悔しさがあった。これまでのあれこれからして、一言もなく逝ってしまうなんて、それはないでしょう、と、文句を言いたかった。こちらは心を尽くして接してきたのに、所詮は肉親ではないのだ、ということを突き付けてくるなんて、そこまでしなくてもいいでしょう、と言いたかった。
それでも、仲のよい夫婦がいたわり合いつつ抱き合って、満足の微笑を花に埋もらせて死んでいったようだから、それはそれで救われるとも思った。そう思いたかった。死因など詮索して、悔しさを倍加させたら、もっと惨めになりそうな気がした。
吉田は、両手で、トリカブトの根元の穴に土を戻し、丁寧に表面をならした。
後日、吉田は、銀行の金庫に保管した源次郎さんの遺言状が二度ほど差し替えられたことを知った。その差替えについては、吉田支店長代理には知らせるなと、源次郎さんから厳命されていたのだと、支店長が苦しそうに弁明した。
だが、遺族が漏らした遺言状の内容は、当初、吉田が源次郎さんと協議したものと同じで、吉田は首を傾げるばかりだった。
一度目の差替えが「遺産の一部を吉田和彦に」という源次郎さんの意思、二度目はそれを取り消すサキさんの意思、だったことを、吉田が知る由もない。また、源次郎さんとサキさんの遺体を最初に見た茶道具屋は、「お二人とも幸せそうに笑っておられた」と吉田にも話したが、サキさんの微笑みの奥に何か得体の知れないものを感じたことについては飲み込んだので、そのことも吉田は知らない。 (了)


