2006年09月01日

<第17回浦安文学賞佳作>

人のいい女
宮川直子
  田中曽女・画


 肌は白いこと。額は広く、たれ目が良し。頬はふっくら、鼻は小さく唇が少々肉厚であれば、なお良し。肥満は困るがやせぎすであるよりかは、ふくよかであることを望む。篠塚康夫が理想としているいい女の外見を述べると、ざっとこんなものである。これを聞くと、大抵の男はひどく不細工な女を想像するようだが、要はマリリン・モンローのような女が康夫は好きなのだ。
 恋愛というものは、おおよそフェティシズムと妄想による産物と言っても過言ではない。好みが明確であるぶん、気に入る女性がそうそう目の前に現れてはこなかったが、ひとたび出会うと付き合う女性はみな「俺のマリリン・モンロー」と称して、康夫は自分なりの大恋愛を繰り返してきた。
 妻の明代も、そんな中の一人だ。申し訳程度に下がった目じりと、少し出た前歯が当初、康夫の心の振り子を大きく揺らしたが、何かと理屈をつけては、夫の自分を論破してしまう口の達者なところが、今では振り子を微動だにさせない。利口な女はごめんだ。女は少々馬鹿げたところがあるのがいい。これは結婚後、篠塚が妻から学んだいい女の条件である。
 弓原文子と出会ったのは、篠塚が三十五という若さで、すでに心は中年と呼ばれる域に、どっぷりと足をつっこみ、家庭も仕事も捨てるには及ばないがしがみつきたいものでもないという厄介な頃だった。今から三年前の話である。

            *

 会社の上司と一緒に、小さなラウンジに飲みにいったとき、その店で文子はアルバイトとして働いていた。さびれた小さな店で、おそらく今はもうないだろう。狭くて、安っぽく、薄暗い店内であるにもかかわらず、壁には得体のしれない染みがロールシャッハテストのような図面を描いていたのが、はっきりと目に焼きつくようだった。安月給のサラリーマンでは、そんなところでしか飲めないというのも、またあの頃の事実だった。
 課長の両隣には、若々しくみせようと施した化粧が悪い意味で年齢不詳にさせている派手な雰囲気の女性二人が、けたたましく喋りながら、あれこれと課長の世話をやいている。向かいに座った康夫の隣にも、女性が一人座っているが、前の二人の騒々しさに存在自体が霞んでいるようだった。「どうぞ」と、康夫に差し出した水割りは、酒とも水ともとれるような代物だった。
「駅のホームでさ」
 説教好きの五十過ぎの課長が、いつものように酒の勢いがまわり始めた頃、おもむろに声を改めて話し出した。始まった……、康夫は内心舌打ちをする。
「百万円ぶんのお札を落とした奴がいるとするよな。で、周囲にいた人間が拾うのを手伝ったわけだ。Aは、二万円を拾ってそのまま立ち去った。ところが、Bは二万円を拾ったが、一万円だけ落とし主に返すと一万円は自分のポケットに入れて去った。おい、篠塚、お前ならどっちが悪いと思う?」
 課長の両隣に座っていた女達は、「どっちかなー」「両方、悪いよねー」と興味なしといった様子で、何がおかしいのか笑っている。この手の女は、やたら無意味に笑うので康夫は苦手だ。
「そうですね。やっぱり一万円だけ返した奴ですかね」
 何故、団塊の世代と呼ばれる奴らは、こうも観念的な話をしたがるのだろうかと嫌気がさしたが、そんな様子はおくびにも出さず、康夫は迷うふりをしてから興味ありげに答えた。
「おっ、俺と一緒だな。何でそう思う?」
 毛穴から油が大量に出ているのかと思わせるような光った課長の頭を眺めながら、康夫は隣に座っていた存在が霞んでいる女から水割りをもらう。
「なんだか、いやらしいじゃないですか。二万でも一万でも盗んだことには変わりはないでしょう。まるで一万で人に恩を売りつけているみたいで性質が悪い」
「そうだろ? そうだろ?」
 康夫の答えをいかにも気に入った様子で、課長は満足げな様子で頷いている。
「返すんだったら、全部、返せよな。一万を返すことで自分は善人になろうってところが俺は気に食わん」
 そして、大儀そうに膝をポンと手で打つと大口を開けてガハガハと笑い出した。両隣の女も、つられたように笑いながら何かを言っているが、嬌声めいたその声から言葉は聞き取れない。
 そろそろ出るか……、上機嫌な課長がこのままいくと収拾がつかなくなり、結局、家まで送り届けねばならない羽目になることを予想したときだった。
「うちは、そうは思わへん」
 隣に座っていた康夫でさえ、聞き逃してしまいそうな小さな声だった。事実、課長達の耳には届いてなかったらしく、両腕を酒の勢いで馴れ馴れしくホステスの肩に置いている課長は、今度は自分の武勇伝と称して限りなく嘘に近い仕事の話をしている。康夫の隣に座っていた彼女は、康夫の視線には気がつかないのか少し乱暴な手つきで水割りを作ると、今度は自分でガブリと噛み付くように飲んだ。
 うちは、そうは思わへん――、彼女の小さな唇から洩れた、柔らかい関西の言葉が康夫の興味をひいた。
「何? 二万円を盗んだほうが悪いってこと?」
 ギョッとしたようにグラスを持っていた彼女の手が強張った。グラスの中の氷がカランと、店内の陰気な雰囲気には似合わない清々しい音を出す。彼女はゆっくりとグラスをテーブルに置くと、迷うような表情を見せたが、意を決したようにコクリと強く首を縦に振った。
「だって……そうでしょう? 確かに一万は盗んだわけだけど、一万だけ返した人は、落とし主に悪いから半分だけでもと思って返したのかもしれへんやん」
 標準語を喋ろうとしているのだろうが、興奮しているためか、関西弁が入り交じっている。そんな彼女の言葉には、どこか愛嬌があって康夫は思わず笑みがこぼれた。だがそれを嘲笑と受け取ったのか、彼女は一瞬傷ついたような顔をしたかと思うと、どこを見ているのか、何かに挑むように強く、あるいは怒りを隠せないようにきつく前を見据えた。
「つまり、君は善意で、その人が一万だけ落とし主に返したと思っているわけだね」
「そう! それ! 善意よ。善意! そんな恩を売るみたいな悪意で、全ての人間がお金を返すとは思われへんの」
 さっきまでのキツイ眼差しから一転して、今度は目を丸くしながら自分の考えを必死に伝えようとする彼女の様子から、康夫は自分が考えている以上に、この子はまだ若いのではと思い始めた。二十歳そこそこか……? 学生か? さっきからひかれていた興味が、今度は彼女の言葉ではなく彼女自身に変わった。
「性善説、性悪説っていうやつだね」
「それ、高校生のときに勉強しました。孟子と荀子でしょう?」
 そうだったかな……と思いながら、手にしていたグラスを康夫は意味なく回した。店の中に渦巻く喧騒と倦怠を振り払うように、カラカラと氷を鳴らす。
「君、名前は?」
「……アヤコです」
 さっき自己紹介をしたのに聴いていなかったんですか? というような怪訝な顔をされたが、実際、康夫は全く覚えていなかった。彼女の外見は「マリリン・モンロー」から程遠かったからである。肌は白いが、小さな目は一重瞼で少々きつい感があるし、頬もスッキリとしていて全体的にシャープだ。唇も薄く、よく言えばクールで知的な雰囲気ではあるが、悪く言えば人を寄せ付けない冷たい印象があった。どちらにしろ、康夫が掲げていたいい女の理想とはかけ離れていた。
「アヤコか……。どう書くの?」
「文章の文に子供の子」
 そっけない言い方だったが、その古風な名前が水商売をするには地味すぎる彼女にはなんだか似合っていた。いい名前だと、康夫が正直に彼女に言ったとき、初めて彼女は笑った。唇の間から、チラリと見えた八重歯が、康夫が気に入った文子の最初のパーツだった。

            *

「もうすぐ卒業だな」
「ほんま、早いわ。あっという間。就職は決まったし、後は卒論さえ提出したら花マルや」
 白い器にもられた南瓜の艶やかな黄色に目を奪われながら、康夫はキッチンから聞こえてくる文子の声が妙にはずんでいることに気がついた。

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「どうした? えらくご機嫌じゃないか?」
「えっ? そう?」
 キッチンから出てきた文子は、かれいの煮付けを康夫の前に出す。子持ちの部分を康夫に食べさせ、自分は背の部分を食べるようだ。手料理を食べに、康夫はたまに彼女の部屋を訪れる。決して豪華とはいえないものの、訪れればいつもそんな文子の小さな気遣いに満ちた楽しい時間が過ごせた。出会ってすぐに文子は店を辞めてしまったが、その後も付き合いは続き、妻の明代に気付かれることもないまま表面上は穏やかに過ぎていた。
「今日は冬至やから。南瓜を食べなあかんのよ」
 そう言って、南瓜の盛った皿をツツツと康夫に勧める文子の指を見ると、自分はこういう女と結婚したかったのではないのかと思うこともあるが、所詮それは想像だけで現実として考えることは一度もなかった。銀行で俗にいう「キャリアウーマン」として働く妻に、愚痴はあっても文句はない。何より、離婚をするような気力が康夫にはなかった。文子との関係も長くは続かないと思いつつ、気がつけば足掛け三年に及ぶ。
 南瓜の煮物を一つ、口にする。甘い南瓜の味とホンノリと醤油の香ばしさが口いっぱいに広がり、ふと続けられるところまでこのまま続いてほしいという甘い考えが康夫の中に涌き出てくる。
「文子は薄味だな」
「お口にあわへん?」
「いや、うまい」
 文子の手料理は、煮物に限らず味噌汁、炒め物にいたるまで全て薄味だ。当初、妻の料理に慣れていた舌には物足りなさを感じたものだが、素材の味をわからないようにする味付けは、料理が下手な証拠だと文子は言う。確かに明代の料理は、調味料で味わい、素材で歯ざわりを楽しむような料理だ。薄味のほうが健康にいいから奥さんに話してみたら? とも文子は言っていた。
 京都生まれの京都育ちで、東京の大学に通うため上京してきた文子には、どこか女特有のきつさがある。文子に言わせれば「うちはいけずやから」ということらしい。「いけず」とは、関西でいうところの「意地悪」であるが、康夫には「いけず」という言葉に、どこか艶のある魅力的なものを感じてしまい、意地悪という言葉と素直に結びつけることができなかった。三年前、善意で金を返したのだと主張する文子を、人がいいと思ったところに原因があるのかもしれない。学費のために、水商売さえいとわなかった彼女の勉学への真面目な姿勢も、その一因かもしれない。
 このまま続けばな……、また甘い考えが頭をよぎる。康夫は、味噌汁をすすった。
「ねえ? 南瓜のおかわりあるけど?」
「もらおうかな」
 やはり浮かれたような文子の声を、康夫は訝しく思いながら白い器を差し出した。
「どうしたんだ? やっぱり今日はなんか変だぞ」
 先月、会ったときは風邪気味だと落ち込んだ様子であっただけに、今日の文子は不気味とさえ感じる上機嫌だ。
「やっぱり、わかる?」
 キッチンからヒョッコリと顔を出した文子が、ニーッと笑う。八重歯がのぞいて康夫は、昔みたドラキュラ伯爵の映画を思い出した。

            *

 エアコンをつけ、石油ストーブをつけ、部屋の中はむせかえるような熱さだった。
「ねぇ、あなた聞いているの?」
 ソファーに座り、熱さで思考力がにぶりそうになっていたとき、突然、水をかぶせるように冷たい声がふりそそいだ。顔を上げると、化粧をおとした明代が仁王立ちになっている。心を揺さぶった彼女のたれ目は、ここのところ年齢とともに更に垂れ下がってきた。
「なんだ? 出張だろ?」
「そう出張なの。明日から一泊でね。だからお夕食は適当に食べてくださいね」
 何時に帰ってくるんだ? 帰ってくる日の夕食はどうなるんだ? と、いろいろと訊きたくもあったが、全てが今の康夫には億劫だった。それは明代も同じらしく「じゃあ、おやすみ」と言うとさっさとリビングから出て行く。寝室はとうに別になっていた。
 今日の夕食は、鶏肉をトマトソースで煮込んだものだった。肉はやわらかく、トマトの味がした。部屋にも身体にも、体内にもトマトの匂いが充満していて正直気分が悪い。いや、原因はトマトのせいだけではなかった。

              *

「結婚?」
 一瞬、誰が? と言い返しそうになったが康夫の口から言葉は出なかった。そんな康夫の反応を楽しむかのように、上目遣いで見つめてくる文子は、まるで父親にでも報告するかのように、どこか恥らっているように見える。
「そう。プロポーズされたんよ」
「……誰に?」
「大学のサークルの先輩。院生なんやけど、来年から研究室で助手になるの」
 いつからなんだ、と訊きたいのに、また言葉が出なかった。文子が無邪気に笑う声がエコーをかけたかのように耳に入ってくる。
「……研究室の助手なんかと結婚して、生活できるのか?」
 心の動揺を悟られまいと努めて平静を装ったつもりだが、声が高くなるのが自分でもわかった。
「大丈夫や。私も働くし、彼はまだ助手やけど貯金はたくさんあるみたいやから」
「なんだ? いいとこの坊ちゃんなのか?」
「趣味で株やってんねん。私は、よう知らんけどネットで取引してるねんて」
 嬉々として語る文子を横目に、康夫は耳に入ってきた言葉を吐き捨てたくなった。毎日、靴をすり減らし営業の仕事で稼いでいる康夫にとって、椅子の上でパソコンの画面に目を光らしながら、金を右へ左へと移動させて儲けるような輩は嫌悪の対象だったのだ。
「一体いつからなんだ?」
 さっきまで高すぎる感のあった自分の声が、今度は恐ろしいほど低く響いた。
「いつからって?」
「一体、その男とはいつからの付き合いなんだ?」
 瞬間、文子の黒目が意地悪く光ったような気がした。いつだったか「うちはいけずやから」と言った文子はこんな目をしていただろうか。
「いつからって? そうやな、もう二年近くになるかな」
「なぜ、話してくれなかった?」
「だから今、話してるんやないの。もう来年の春にはここを引越しすることにしてるねん。新居はまだ決まってないんよ。でも私も忙しくなるし、もう会うこともそんなにないと思うけど……」
 それは別れの言葉なのか? と訊きたいのに、肝心なことになると口が強張り閉ざされてしまう。そんな康夫の心の内など知らないといった様子で、演技なのか、自然体なのか、相変わらず文子は流暢に話し続ける。
「なんや? 康夫さん、喜んでくれへんねんな」
「あっ? いや……。急だったから驚いているだけだ」
「ふふ。そうやね。彼氏には康夫さんのことは、よう話しててんけど、康夫さんには彼のことを話したことないもんね」
 思わず手にした湯のみを落としてしまった。ガタンという音とともに、侵食するようにゆるりと、ぬるい液体が机の上に広がっていく。あら大変と、文子は側にあったふきんで拭き始めた。こぼれたお茶が、ふきんに押されるようにして拭かれていく。あたかも自分の中にあった甘い考えが、何かに追われて消されていくかのようにも見えた。
「俺のこと、その彼氏に話しているのか?」
「うん。そうやけど? 昔、アルバイトしていたところのお客さんって言うてる」
「それで? 俺のことは何て言っているんだ?」
 今度は純粋に興味がわいた。相当馬鹿な男でない限り、康夫と文子の関係を勘ぐるだろう。それでも、文子と結婚しようとするのならば、康夫のことは何かと彼女に言っているはずだ。
「うーん、経営者には向かない男やねって」
「は? 経営者?」
 予想もしなかった言葉に、今度は口が塞がらなかった。何故、経営者という言葉が出てくるのか、康夫には全く理解できない。文子は、思い出すように顔を心なしか上に向け、口を半開きにしている。
「ほら、覚えてへん? 初めて会ったとき二万円を拾って盗んだ人間と、一万円だけ返して一万円は盗んだ人間とどっちが悪いって話したでしょう?」
「ああ、悪意で返したか、善意で返したかっていうやつか」
 忘れるものか。文子との付き合いの発端はそこにあったからだ。そして、文子に心惹かれたのもそこにあった。
「彼はね、それだけの情報やったら一万円だけ返したほうがいい人間やって言うの」
 今度は情報ときたか……。あの課長が団塊の世代なら、この世代はなんと呼ばれているのだろう。どちらにしろ、好きになれない類の人間だ。
「情報って何だよ?」
「例えば、お金を拾っているところを見られているか、いないかっていう情報。確かに、あの時はただ拾って盗んだってことしか言及していなかったやん?」
「まあ、そうだな」
「彼氏が言うには、それだけの情報から判断した場合、まず落とし主にとっては『回収』というのが最終目的にあたるわけだから、たとえ一万円だけでもその目的に貢献した人間のほうがいい人間やって言うねん」
 眩暈がした。なんだ、それは? 回収? 貢献? 同じ話でも、あの説教好きの団塊課長と、ネット株彼氏だと全く次元の違う話に聞こえてくる。
「つまり、金を拾っているところを見られているかどうかで、また話は違うということか?」
「うん。そう言ってた」
「で? それでどうして俺が経営者に向いてないって話になるんだ?」
 軽い怒りのようなものがこみ上げていた。文子を奪われたことだけでなく、経営者に向いていないと言われたことにだ。それは人の上には立てないのだと、顔も知らない年下の学生に暗に馬鹿にされているような気がした。
「そんな情報だけで、倫理的な話をするような人間は会社を駄目にするタイプやねんて。経営者は、会社の利益に貢献する人間を評価せなあかんからって。会社のお金を横領した場合、盗んだことはどちらにしたって悪いけど、一万円だけでも返したほうが会社にとってはええ人間やないかって、彼は言ってたわ」
 言い終えると、文子は湯飲みにお茶を入れた。

            *

「くそっ!」
 頭の中で駆け巡る文子の声を止めようと、康夫は側にあったクッションを壁に叩きつけた。ボスンというどこか情けない音を出してずり落ちるクッションを見つめながら、今度は拳をソファーに何度も叩きつけた。クッションと同じように、これまた愚鈍な音がする。殴られたり叩かれたりすれば、今の自分からもこんな音がするのかもしれないと思うと、自嘲的な乾いた笑いが出てきた。

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 喉が渇いた。康夫は、ソファーから立ち上がると、キッチンに向かい急須を出す。酒を飲めば、ますますみじめになりそうなので、康夫は茶筒を探した。
 情がない奴だ……、とは言えなかった。その話に納得できるところがあったというだけではなく、何より妻を欺いてきた自分に「情」という言葉を口にすることは憚られた。
 どうせ続かないとわかっていた関係だ、今さら未練など感じてどうする――自分を叱咤しつつ、急須に湯を入れる。仕事が忙しいと妻には言いながら、文子に時間を費やしてきた――都合がいいのはわかっているが、文子との別れが確かに感じられる今となって急に妻に対して罪悪感が生まれてきた。明代が勘付いていないことを幸いと考えて、この不毛な関係を終わらせるにはいい頃合かもしれない。
 いや、もしかすると明代は気づいていたのかもしれない。何せ三年近くになるのだ。波風がたたないように黙っていたのだろうか。そう考えると、明代こそが人のいい女だと思えるようになってくる。
 一息つけるように茶を啜った。そのときだった。どこからか軽やかな電子音が聞こえてきた。リビングのテーブルの上で、明代の携帯が鳴っている。いつも肌身離さず持っているのに、今夜は置きっぱなしにしていたようだ。メールだったのか、電子音はすでに鳴り終わっていた。
 明代はもう寝ただろうか、このまま放っておこうか……迷いつつ康夫が携帯を手にしたときだった。
 ガチャリと音がして、リビングに明代が入ってきた。どこか怒ったような顔で、康夫を見つめている。そしてきつい視線を、そのまま康夫が手にしている携帯に向けた。
「見たの?」
 覗き見たわけでもないのに、なぜだか後ろめたい気持ちになるような責める明代の声に、思わずたじろいだ。
「いや、見てないよ。なんかメールがきていたみたいだが」
「そう」
 明代は、ひったくるように康夫の手から携帯を掴み取る。
 見てないよ、本当だよ――そう言おうとしたとき、妻が大きく深呼吸をした。
「ねえ。私、あなたに話があるのよ」
 明代の黒目が意地悪く光ったように、康夫には見えた。   (了)